2009年8月30日日曜日

ドアの話2

「ドアの話」に戻る

ドアの話を書いてずいぶん経ったが、つい先週また新しい
ドアの経験をした。たかがドアの開け閉めだが、自分には
これも国際環境で生活する上での貴重な意味がこもってい
るように思えて面白い。

以前書いた様に、自分の生活している環境では、外国人が
ドアを年齢、性別かまわず人のために開けてあげるのは、
人生や仕事の経験が豊富で、大人やリーダーが兼ね備えて
いるべくマナーであると自分は考える。

そして、まだそれが新鮮であったころの自分が、先輩達のまねを
して同僚にドアを開けようと試みたときは、経験不足のためか
違和感を覚えた。自分には自然にそれができはしなかったのである。

最近では、まだまだではあるが、その頃よりはそういった
気遣いができる様になってきた気がする。

そんな中、先日朝会社についてから、コーヒーを隣のカフェで
買って来た帰り道である、カフェで一緒になった会社の幹部
の一人と雑談をしながら戻る際に、会社の入り口のドアをその
人の為自分が開けた所、なんと彼はもう一つのドアを自分で
開けて入っていってしまった。

あれれ?と思った。タイミング的にもその開いているドアを
くぐった方が自然なような気がした。ただの自分の気にし過ぎ
かもしれないし、タイミング的なものでしか無い可能性も高い。

しかし自分には、幹部という立場のひとが、自分にドアを
開けられることが少々居心地が悪かったということだったの
ではないかと想像している。要は自分が、この人から見て
まだドアを開けられて快適な大人には見えないということ
のような気がする。

確かに、自分より大人で(これは年齢ではなく人としての
大人さ)、会社でのリーダーシップの経験などが長く
豊富な知人が、自分の代わりにここでドアを開けていた
ことを想像すると、この人が自然とその開いたドアを
くぐる姿が、悔しいが想像できてしまう。


「ジェームズの話」に進む
この読み物のタイトルに戻る...