2009年1月30日金曜日

なぜ日本人は外国がニガテか? 〜問題提起

まず始めに、日本人は世界的に能力が高いと思う。
自分の分野でもそうである。日本のスタジオで実力のあった
アーティストの方々は、アメリカやヨーロッパのスタジオに
所属しても、やはり一流の実力がある。

当然文化の違いなどの難しさはこのブログにも書いている
ように沢山ある。また、文化の違いにより、実力が国際環境
では100%発揮されない場合も有る。このブログに書いてある
ように、それは文化の違う環境で働いている以上はそれを
無視するわけにはいかない。

しかし、こういった文化の違いとは別に、過去に自分にはどこ
か漠然とした「外国はレベルが高い」といったイメージがあった
事を告白しなくてはならない。渡米したころの自分は、外国に
対する未知なる偉大さの様なイメージを思い描いていた。

自分の場合、いろいろな経験を国際環境で積み、そのなかで
ようやく、日本も外国も能力には国境が無いということに気づいた。

さらには、海外で生活していると、日本という国、文化、そして
能力が、世界的にかなり高く評価されていることを身に感じる。
これはおそらく、我々日本人が思っている以上に、日本の評価は
外国で高い。

つい最近アメリカ人の夫婦と話をしたときに、日本の話に
なった時に、日本人に対するアメリカ人の一般的な見方は、
「能力に秀でた、一目おく人たち」であると言っていた。
こういった具体的な表現を聞いたのは初めてだったので、
「ほー」と思った。自分の現在の見方が第三者の意見により
確認された感じがした。

しかしそんな中、こんな光景を目にした事があるのは自分
だけではないはずである。

例えばどんな分野でもよい。その分野で日本で実力があり、国を
代表する人がいるとする。そしてそのひとが、同分野の外国の
代表者と接する機会があるとする。

現在の自分としての理想は、お互い、自国の一流同士として、
自分、および自国に自信を持ち、また、相手も他国の代表と
して、お互いを尊重した態度、コミュニケーションをとること
が理想であると思う。

しかし、このような光景を目にする事がたまにある。それは
つまり、

「おっと、外国の代表者だ、恐れ多くも大きい事は言えないよ。」

もちろん、外国に対して臆さないひとは沢山いる。自国の
プライドを持ち、外国がどうした?という日本人も自分の周り
にも沢山いる。

また、日本の美徳である、他人を敬う、謙遜の心、といった
ことをさしているのではない。これらは外国の人も学ぶべきで、
これは我々が誇るべくカルチャーであると思う。そうではなく、
ここで自分が感じるのは、どこか、外国人は自分よりレベルが
高いといったイメージの事である。

実際に実力、能力があり、外国の人もそう一目置いている。
当然、日本で実力の有る人は、世界的に実力がある。そういう
意識があれば、外国の代表者に引け目を感じる理由はどこにも
無いはずである。

もっと言うと、仮に、百歩譲って、ある分野においては日本
よりもある国の方が実力の平均値が高かったとしよう。
それでも、外国の情勢など関係なく、自国の環境に自信を
もって外国に対して堂々としている文化もある。

それではなぜ、自分も含め、こういった外国人の評価を勝手に
大きくする傾向があったのであろうか?

次は自分なりにその理由を考えてみたい。

2009年1月21日水曜日

アメリカンジョークに対する基本姿勢 Part. 2

「アメリカンジョークに対する基本姿勢 Part. 1」へ戻る

さて、Part. 1で話したように、アメリカンジョークは我々日本人
のように、慣れていない人にとっては見分けるのがすごくむずかしい。

なのでずいぶん前に、アメリカ人の友達に、どうやってお前らは
ジョークかどうか見分けるんだ?と聞いた事がある。その時の
友達の返答は、

「冗談である事を前提に話をする」
(もちろん、これは冗談を言って良い環境において)。

であった。

そんな事でコミュニケーションが成立するのか?と思われるかも
しれない。

ただし、もちろんそれではまじめな話が全くできなくなるので、
仮にそれが冗談で無かった場合に、冗談ととらえると何か
まずいことが起きるような内容であった場合、
"You're joking, right?"(冗談でしょ?)と冗談である
ことを確認するのである。
  
さらに、この冗談が前提という、アメリカンジョークの混ざる
会話に慣れすぎると、多くの事を冗談と仮定するのが普通に
なる為、疑いもせず冗談と決めつけることが起こる。すると、
冗談でないのに冗談であると決めつけてしまうことが起こり、
その際に、「なーんだ、冗談かと思ったのに本当だったのか」
という意味の"I thought you were joking"という
訂正の表現をよく使うのである。本当にややこしい。

つまり、考え方としてはこうだ。

「話している方は、相手が冗談と疑える事を前提で話してい
 る(つまり、逆に言うと、疑えない方がわるい。疑えない方が
 わるいという具体例は「移民局からの電話」へ)」
   ↓          
「だからジョークは、なるべく冗談であろうと疑っている
 相手を引っ掛けられる様に真顔で言う」
   ↓
「それゆえ、聞いている側は、冗談という前提で反応するか、
 すごくまじめに聞こえる内容は、冗談と仮定して実際に
 冗談でなかった場合にまずいので、"you're joking, right?"
(冗談でしょ?)という確認方法を使う(すごくまじめに聞こえる
 なら初めからまじめな意見として聞け!といいたくなるが、
 ここに冗談を前提とするというカルチャーが伺える。)」
   ↓
「そして、上の3つが普通のため、"I thought you were
joking"(冗談かと思ったよ)という、冗談であるという前提が
 間違っていた場合、その反応の訂正をする。

もうひとつ例を挙げる。

A: "blah blah"(相手が何か言ったとする)
B: "haha, you're funny"((冗談と仮定した反応)はは、
  面白い奴だな、冗談なんていって。)             
A: "no I'm dead serious!"(冗談じゃないよ!超まじめに
  いってんだよ!)
B: "oh..."(なんだ、マジなのか。。。)

これも良く日常で聞く会話の流れである。これは「A」が何かを
まじめに言っているのに「B」が冗談と仮定し、信じない場合である。
「A」は再度、「いんや、まじめに言ってるんだけど。。。」と
信じない「A」を説得しなくてはいけない。ここにも、多くを冗談と
仮定する会話の流れが見られる。

これらの例から、アメリカでのカジュアルトークには、多くの部分
を冗談と仮定してコミュニケーションを進めるカルチャーがあること
が分かると思う。

まじめに言っているのに、冗談としてとられる会話、そして、真実
っぽく聞こえる場合には、逆に「冗談だろ?」とわざわざ確認しな
くてはいけないのが、ここのカジュアルトークの枠組みである。

日本語の場合は、会話においてまず前提として、言っている事は
基本は冗談と仮定するなどということはしない。

では、この基本対応を考慮して、Part. 1の「他人」との会話の、
対応を考えてみよう。

元は:

他人:「あれ、お前のボールが1つか2つ足りなくないか?」
自分:「え?そんなことないよ」
他人:「俺がいない間にズルしたんじゃない?」
自分:「数え間違えじゃない?」
他人:「ははは、落ち着けよ、おまえ、冗談だよ」

アメリカ的な対応は:

他人:「おい、おまえのボール1つか2つ少なくないか?」
自分:「(疑わしいので、冗談と仮定して)、はは、面白い
    奴だな、おまえ」
他人:「ははは」(実際に冗談であった)


で会話は終了である。「他人」からすれば、ジョークをかまし、
それに相手が対応した、どこでもあるカジュアルトークである。

もう少しカジュアルトークを進める、手強い相手の場合は、

他人:「おい、おまえのボール1つか2つ少なくないか?」
自分:「(疑わしいので、冗談と仮定して)、はは、面白い
    奴だな、おまえ」
他人:「冗談じゃないよ、本当にずるかなんかしてないか?」
   (まだジョークを続ける)
自分:「はは、へたくそなお前が俺の為に間違えて沈めてくれ
    たんじゃないの?(等)」<--- br="">他人:「ははは」

こんな感じで、外国人はどうでもよい冗談を言い合い、お互いの
存在を楽しむのである。

いくつか上で述べた、他のパターンはこんな感じである。

他人:「おい、おまえのボール1つか2つ少なくないか?」
自分:「(疑わしいので、冗談と仮定して)、はは、面白い
    奴だな、おまえ」
他人:「いや、まじだよ」(冗談ではなかった場合)
自分:「ああ、なんだ、冗談かと思ったよ。じゃあ、それは
    お前の勘違いだよ。」
他人:「あ、そっか、ならおっけー。」


他人:「おい、おまえのボール1つか2つ少なくないか?」
自分:「(冗談だと思うが、相手がマジで気にしてると相手に
    悪いから)冗談だろ?」
他人:「いや、まじだよ」(冗談ではなかった場合)
自分:「ああ、なんだ、じゃあ、それはお前の勘違いだよ。」
他人:「あ、そっか、ならおっけー。」

こういうカルチャーにおいて、カジュアルトークに参加する場合、
「基本は冗談である」、という習慣のない日本のカルチャーで対応
すると、コミュニケーションに少々ギャップができるのは想像して
頂けるのではないだろうか?

2009年1月19日月曜日

ナポレオン・コンプレックス

先日は今年のアカデミー賞視覚効果部門のベークオフだった。
(ベークオフとは、その年の現在ノミネーション候補に
上がっている7作品の中から、ノミネーション3作品を決める
アカデミーの正式な選考会)。

さて、ベークオフの話がしたいのではなく、その会場で友達に
聞いた、こっちのカルチャーを表す面白い英語表現についてで
ある。ベークオフとは、ノミネーション候補の7作品に名前が
挙がっている代表者が、アカデミー会員にその作品の視覚効果
がいかに優れているかというプレゼンテーションをする会で
ある。つまり、そのステージに上がっている人たちは、
各映画の視覚効果全体を総括している大リーダー達である。

そのなかの一人がステージにあがり、堂々とプレゼンテーション
をしているなか、友達の一人が、彼についてぽろりとこんな表現
をした。

友達:「彼って堂々としてるけど、ナポレオン・コンプレックス
    持ってるんだよね。」
自分:「ナポレオン・コンプレックスって?」
友達:「ああ、背が低くて、その分自分を証明しようと肩に力を
    入れている人の事」
自分:「ふ〜ん」

そのステージ上の彼は、自分からみて少なくとも175センチはあった
ように見えた。日本人の感覚からすれば、あのような大舞台で、その
身長で、自分の業界のトップの大リーダーが堂々とスピーチしているの
に対し、「彼は背が小さいから〜」といった冗談を言う事はあまり
ないであろう。

さらには、つい最近、こんな会話を友達とした事がある。

ミーティングにおいて、言葉を発せず、みんなただ座っている
だけでも、その中のリーダは通常すぐに分かるというのである。
それは大抵その部屋の中で、身長が高く、ガタイが大きく、髪の毛が
短く(まじ)、ミーティングの中心位置に座って、堂々としている
ひとであるというのだ。あくまでこれも、この友人の個人的な意見で
あるが、いままで外国で仕事をしてきた中、自分の経験からもその
ときの反応は「うんうん」と同意であった。

もちろん例外は沢山あるが、割合的にはたしかに彼の言っていること
は一理あり、ステレオタイプ(同じ考えや態度や見方が、多くの人に
浸透している状態。wikipediaより)として言われるのはうなずける。

さらにもう一つ面白い例がある、自分の会社で、みんなが誰に
やれと指示されたわけでもないのに、同じタイミングでジムに
通いだすことがある。(というよりは、ジムに通う習慣のない
ひとが、突然ジムに通いだすことがある)。もう想像つくかも
しれないが、会社でリーダー的な仕事をやり始めると突然ジム
に通い始める人が多いのである(笑)。

なにが言いたいかというと、冗談ではなく、現在自分の生活
している環境では、「リーダー」=「背が高く、ガタイの大きい人」
というステレオタイプがある。そして、それに当てはまらないと、
ベイクオフのプレゼンの舞台に立つ人でさえ、ちょっとした
皮肉ったジョークを言われるのである。

もちろん、身長が低いから君はリーダにはできないなどと
いった話は聞いた事が無い(仮に、もしこんな事を実生活で
聞いた事が有る人は、ぜひご一報を。)

しかし、このブログの他の場所でも書いているが、自分の生活
する環境は、リーダーが束ねなくてはいけないのは、自己主張を
どんどんし、上司に肩書きがあろうと、それに見合ったカリスマ性、
威厳、実力がないとついていかないという人たちである。そんな
環境においては、風貌が、リーダーのステレオタイプにあてはまる、
物理的に「大きな」存在であることがプラスの要素である事は
あながち想像できないことではない。

さて、ベイクオフのステージの彼に話を戻す。自分の観点から
話をすると、この「ナポレオン・コンプレックス」を持つ彼は
すごいと思う。海外で仕事をしてきた自分にとって、前出の
外国人の持つ、リーダーに対するステレオタイプは自分にも
現時点であるはずである。そんな自分にとって、ステージ上の
「小さな」彼はまったく小さく見えなかった。初めに書いたが
かれは堂々とし、リーダーとしてのカリスマ性もあり、一言で
言うと「威厳」があった。ミーティングで彼が発言すればみん
なが耳を傾けるであろう。

彼の事を「ナポレオン・コンプレックス」と表現をした自分の
友人は、その大リーダーとしてのステレオタイプに当てはまら
ない彼が、振る舞い方、態度、発言によって、本当の「大きさ」
を体得していることに気づいていただろうか?

2009年1月15日木曜日

"Hi〜" vs. "Hi"(「〜さんこんにちは」と「こんにちは」の違い)

ある自分の知人を"Mike"(マイク)とする。彼は自分の
大親友ではなく、他人でもない。お互いにいつか自己紹介
したことがある、名前を知り合う程度の知人であるとする。

そして、彼とどこかですれ違い、軽い挨拶をする場合、
(一瞬すれ違うだけである。立ち止まって話すのでも、
立ち止まっている相手に会話をする為に歩み寄るのでも
ない場合。)

A.) "Hi!" (こんにちは!)
B.) "Hi Mike!" (こんにちはマイク!)

どちらをしているだろうか? 想像するに、
かなりの割合で(A)の方が多いのではないだろうか?

自分もずいぶんと長い間(A)をやってきた。(B)を
親友以外にまでできるようになったのはここ数年である。

この小さな違いに「大きな」違いがあるのに気づいた
のは、ある日友人と雑談をしていたときの、こんな会話
からであった。

友人: 「おい亮、会社の「A」ってやつ知ってるか?」
自分: 「いいや、知らないけどどうしたの?」
友人: 「いや、大した事じゃないんだけど、あいつ
     自分とあまり面識ないんだけど、すれ違うたびに
     俺の名前をちゃんと言って挨拶するんだよね。」
自分: 「へ〜」

言われてみると単純な事だが、たしかに"Hi"と"Hi〜"とでは
相手の名前が入っている分だけパーソナル(個人的、親密)な
感じがする。そして、それを言われた方は、些細な差ではあるが、
その分だけちょっと良い気がする。誰でも自分のことを少しでも
意識してくれていると感じる事は悪い気はしないのであろう。

そのとき思ったのである。自分は自分の名前を付けて"Hi"と呼ばれ
るのが普通だが、よく考えたら逆に自分は相手の名前を"Hi"のあとに
つけていないじゃないかと。意識してみるとすぐ分かるが、外国人は
比較的相手の名前までつけてちゃんと挨拶をする。

これは我々のカルチャーでは、ちょっとした軽い挨拶に、相手の名前を
入れるという習慣があまりないからであると想像される。

それゆえ、自然と"Hi"という表現に落ち着き、自分が名前を言われ
ている事を意識せず、そして結果その差にも気づかないのである。

そこでまた自分でやってみた。すると、面白いもので、一言相手の
名前を付け加えるだけにも関わらず、慣れていないため初めは
違和感があるのである。

慣れてしまえば名前を付けた挨拶は意識さえもしない普通の事
となるが、上の自分の友人との会話の例からも分かる様に、
相手の受ける印象は結構違うのである。

つまり、"Hi"の方が、"Hi〜"より他人向けで、"Hi〜"はより友人
向けの表現なのである。そして、自分の仲の良い友達などには、
"Hi"のみではちょっと距離感があり、やはり、友人は、友人
向けの表現で挨拶をした方が良いと思う。

そして、自分の友人が表現した様に、そこまで親しくない人まで
その表現ができるようになると、より「社交性」がある、「大人
である」といった印象になる。

自分の親友とすれ違った時、"Hi"のみで挨拶している場合は、
ちょっと考えてみると面白い。

2009年1月14日水曜日

国際環境での会議はどんな感じか 〜状況説明

自分のいままで働いて来た環境は、様々なカルチャーを
背景にもつ人々が集まる場所であることが多い。働いている人の
国籍は数えきれないほどであり、昼食にいくとそのテーブルの
大半が外国人(この場合はアメリカなのでアメリカ人以外)である
ことが普通である。「おお、今日はアメリカ人が二人もいる!」
といった冗談をよく耳にするのである。

このような環境で一つ会議を行なうと、参加者はこれまた様々な
国籍の人たちがいる事になる。このような会議に自分が初めて
参加した時は、かなりのカルチャーショックを受たのである。

その時の経験を正確に伝える為に、このような状況設定にしてみる。

仮にそのミーティングには10人の参加者がいるとする。国籍は
まったくばらばらである。この10人の中で、自分の得意分野は
「A」とし、残りの9人はそれぞれまた違った得意分野がある
とする。つまりこのミーティングの構成では、「A」の分野が得意
なのは自分のみである。そして、参加者全員は自分の分野が
「A」であることを知っているとする。

今日の議題は「A」、そしてそのときの自分の英会話は、日常会話に
はあまり苦労しない程度であったとする。

この設定で、30分のミーティングを終えたとき、なにがカルチャー
ショックであったかというと、ミーティングで一言も発言ができな
かったのである!

自分の得意分野の議題の会議で、自分以外は別の分野のひとである
にもかかわらず、なぜ一言も話せないのかとかなり落ち込んだ。
そしてその時期はとくに英会話に苦労していたわけでもない。

そのころの自分の感覚で言うと、あるミーティングの議題に精通して
いるひとがその場におり、それがそのメンバーに周知であれば、
通常は自分の意見が尊重されるというものであった。場合によっては
「〜さんの意見をどうぞ」「〜さんはどう思いますか?」といった
気遣いもあるかもしれない。

しかし実際はその正反対で、自分が一番精通しているはずの議題に
もかかわらず、一言も発言ができずに終わるのである。これは
かなりこたえた。そしてどうしてかが全く理解できなかった。

ここでまず始めに考えたのが、「これは自分が会議の経験が浅いから
であろう」であった。実際、今考えると、それももちろんマイナス要因
としてあったことは確かである。

しかし、こんなケースも考えてほしい。

今まで何度も、日本でグループのリーダーをしていた人が、
海外での会議に参加するとうまく発言ができない様子も自分は
目にしてきた。これはいろいろな国で自分が実際に参加した
会議で目にした光景である。また、通常こういった場所の
会議に参加している人たちは、英会話はきちんとできる
人たちであることを付け加えておく。

そのときにすごく自分には疑問であった。自分の得意分野の話題で、
会話能力もあり、母国ではそういった会議に慣れているはず
なのに、なぜうまく発言ができないのか?

また、これが大きな問題なのも明白であると思う。会議とは
その場に参加しているメンバーで意見を出し合い、ベストの
計画を立てるのが目的である。それなのに、その中で一番意見を
提供するべく自分が、一言も話さず、いろいろと決定されてし
まったわけである。「自分の意見が求められないのなら別に
いいか」と思いたい時も正直有る。

しかし、チームを指揮しだすと、自分がその会議で有意義な
意見をし、計画を正しい方向に持っていくことはむしろ自分の
リーダーとしての責任である。話題に参加できなかったでは
すまされないのである。

あれからずいぶんとミーティングをこなしてきた。
そしてその頃から比べればかなりましになってはきた
ものの、いまだミーティングで自分の最大限の貢献をする
ことは自分の中の大きな課題の一つである。

日々の試行錯誤の中、自分の経験からどうしてこういう
現象が起こるのか、なぜ我々日本人の感覚ではミーティングで
思う様に発言ができないのか。そして、どうすればより
発言できる様になるのか。

次は具体的にもっと話を掘り下げる。

「国際環境の会議でなぜ発言できないか 〜現状分析」にすすむ

Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 2

「Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 1」に戻る

まずはじめに意識しなくてはいけないのは、我々のカルチャー
は(特に他人と)目と目を合わせる事に基本的には違和感を覚える
ということである。つまりこれを直したいと考える場合、意識的に
その違和感を克服する必要がある。つまり、この違和感が普通である
ことをまず書いておきたい。

では実際に、日本人と外国人とではどのような行動の違いがあるの
であろうか。これをきちんと把握する事が第一歩であると思う。
だれか他人と学内、仕事場、アパート内ですれ違った場合、

日本人: 人がいる事に気づいたら、あまり相手の目は見ない。
外国人: 人がいる事に気づいたら、相手の目を見る。そして相手も
     自分の目を見たら、「にこっ」と軽い挨拶をする。

簡単な違いであるが、相手に与える印象にはずいぶんと差がある。
残念な事に、前者は「社交性の無い」とらえられてしまい、
後者は「社交性の有る」ととらえられる。この"Eye Contact"が
普通のカルチャーにおいては、後者の方が普通とされる。

幸運な事に、この"Eye Contact"に関しては、そういったカルチャー
的な違いがあることさえ認識すれば、簡単に対応できるのである。

次に学内、社内、アパート内でだれか他人とすれ違ったとき、
まず意識的に相手の目を見てみよう。するとSocial Skillsのある
相手であれば大抵の場合は自分の方を見るはずである。そして上で
述べた様に、相手が自分を見たタイミングで軽く「にこっ」と笑顔を
する。これだけで良いのである。すごく小さな差であるが、意識する
のとしないのでは、相手の感じる社交性の印象に大きな差がある。
なのでこれはぜひ実践すべきであると思う。

最後に、これを実践しだすと面白い体感がおまけでついてくる。
このすれ違い様に相手の目をきちんと見、笑顔をすることに慣れてくる
頃には、逆に自分の"Eye Contact"に対して目を意識的にそらす人とも
出くわす事になる。

Eye Contactに慣れた頃には、自分にとって「あれ、この人自分の
こと良く思ってないのかな?」、「シャイな人だな〜」、
「ちょっと感じ悪いな...」「ちょっと変わった人だな」といった
印象を受けるはずである。それはすなわち、外国人から見た我々日本人
の印象なのである(苦笑)。

次はもう少し社交性のスキルを上げたいひとに、ジャグジーの社交性
の話を紹介する。

「ジャグジーにおける社交性」にすすむ

Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 1

自分がアメリカに来てまだ間もない頃、意識的になおした
Social Skill(社交性)について書いてみたい。
それはすなわち"Eye Contact"(目と目を合わせる事)である。

こんな状況を想像してほしい。

会社、学校、もしくは自分の住んでいるアパートにおいて、
面識の無い人すれ違うとする。会社の場合は社内のどこかで、
学校においては学内のどこかで、住んでいるアパートにおいては
アパート内のどこかで、知らない人とすれ違うとする。これは
その人と隣の席である場合や、「お隣さん」の場合ではなく、
まったく面識の無い人であるとする。

ここで、日本の場合、このすれ違ったひとは他人のため、
とくに相手と目を合わせるということはあまりしない。
むしろ目を合わせると、相手は「何こっち見ているんだ?」
という反応をするかもしれない。これはカルチャー的な物で、
日本においてはこれが普通である。意図的に他人と目をあわせ
ようとはしないのである。

さて、これが国際環境においてはどうであろうか?

誰かがいることに気づいている時に、あえて目線を
合わせないという行動は、自分の経験から、「シャイである」
「社交性が無い」「変わった人」、最悪の場合「失礼な人」
ととられてしまう。失礼なひとととられる事は滅多にないが、
「シャイである」「社交性が無い」「変わった人」と全てよい
印象ではない。

ではなぜそうとらえられてしまうのか?これは外国の感覚から
すると、同じ学校に通っている、同じ会社で働いている、
同じアパート内で住んでいる、という時点で、既に全くの他人では
ないのである。

我々日本人の感覚としては、たとえば社内、学内で数回面識のある
人に相当するかもしれない。もしくは、アパートの「お隣さん」
などである。そういう人と仮にどこかですれ違った際に、意識的に
目をそらす人がいるとすると、これはやはり「シャイである」
「社交性が無い」「変わった人」といった印象になると思う。

アメリカ人にとって、「他人」という定義は我々日本人の感覚
より狭いような気がする。よく道ばたで平気で知らない人に
話しかけてくる外国人を考えるとそれは納得して頂けると思う。

自分が10年ほど前初めて会社で働き始めた頃、なんでこの会社の
人たちは他人なのに自分に挨拶をするのだろうと感じた覚えがある。
そして、当時の自分は当然それに違和感を覚え、目をそらしていた
はずである。

「シャイである」「社交性が無い」「変な人」、という印象が
うれしい人はあまりいないと思う。そして、われわれのカルチャーに
とって普通な行動が、この環境においてはこんな印象であることは
気に留めた方が良いと思う。

Part.2はこのカルチャーの違いをもう少し具体的に、そして自分の
とった解決方法を紹介する。


「Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 2」に進む

2009年1月13日火曜日

友達との会話が楽しめない?

外国で生活する以上は、外国人と過ごす時間がどんな人でもある
はずである。せっかく時間を過ごす以上は、それが楽しい方がよいと
思うのは自分だけではないはずである。自分の場合は特に、国際環境
に置ける生活能力を上げるために外国人と過ごす時間を意識的に
多くしている。

しかし、やはり日本人と日本語を話していた方がしっくりくるのは、
今でも変わりない。話題やメンバーによって程度は違えど、まだまだ
外人と会話をしていると「なんか楽しくない」と思う事が多々ある。

これに気づくまでにずいぶんと時間がかかったが、(というかそれを
認めたくなかった?)そういった状況の時は、自分の場合「会話の為の
会話」をしていることが原因に有る。そして、通常その場の会話にうまく
参加できず、エンジョイできていないときの社交辞令として、もしくは、
くやしさからやっている事が多い。

前者の社交辞令は誰でも経験した事があるであろう。これは何語を
話していようと、自分の興味の無い話題に参加しなくてはいけない
事はいくらでもある。問題なのは、後者の方で、さらにはこれが
自分の気心しれた仲間たち、そして自分が興味のある話題の
ときに、会話に参加できず、その場の友達の存在を楽しめていない
ときである。外国語を話す上で、こういった状況に共感できる人は
多く居るのではないだろうか。

ここで一つ言える事は、仮に「コミュニケーション英語」がある
程度できている場合でも、この現象は起こるという事である。
厄介な事に、単純に「英会話ができないからでは?」ではかたずけら
れないのである。「英会話ができる様になれば自然と楽しめる様に
なるのでは?」も残念ながら適用されない。つまり、「カルチャー英語
力」が足りない事が原因であると思う。

(ここで仮に「え、コミュニケーション英語がまだ不自由な自分は
この先どんなに長いんだ?」と思ってしまった場合、これは別項目で
書くが、コミュニケーション英語とカルチャー英語は同時進行で学べる
と言う事を書いておきたい。このカルチャー英語に関して自分が最終的
に言いたいのは、コミュニケーション英語だけではなく、カルチャー
英語を平行して覚える努力をした方がよいということである。自分は
これに気づくのが遅かったため、いまいろいろ苦労しているのである。)

そしてもう一つ、日本語を話しているときはこれが起こらないと
いう事である。自分の気心の知れた友人達と、日本語で自分の興味の
ある話題を話しているときに、その場が楽しめないという事はあまり
無いはずである。

それではなぜコミュニケーション英語ができる場合でもこれが
起こるか、そして、その状況に陥りやすい場合、具体的に何が
足りないのか、そしてどうすれば自分の友達との会話がより
楽しめるようになるのか?

そこを次は考えたい。

2009年1月7日水曜日

[読み物タイトル] 日記

読み物に当てはまらない、日記的な物はここです。

How's it going? How are you? What's upにいちいちまじめに答えない。

アメリカに来て間もない頃、よくみんながつまずくのが

* How are you? (元気?)
* How's it going? (どう?)
* What's up? (どうした?どうしてる?)

といった挨拶表現に対する対応である。

知り合いとすれ違うたびにこれを言われ、1日に何度も
出くわし、なんて言って返せば良いのかが分からない時期が
自分にはずいぶんあった。

日本人の感覚では、だれか知人に質問を投げかけられれば
当然きちんと返答するのが礼儀である。なので、上のような
表現をされるたびに返答を考えなくてはいけなくなる。

「ああ、元気だよ。」、「いやー、調子悪いや」、
「ん〜、さっき元気って言ったから、今回はなんて言おう」
「どうした?なんてい言われても言う事無いよ。。。」
「俺、この質問されるたびに"OK", "Fine"しか言ってないな。。。」

この質問は、毎日何度も何度も繰り返されるので、
これが続くと、言葉に慣れないうちはこの質問に対する
返答だけで英語の勉強が嫌になる人もいる。

「特に用のない時は話しかけないでくれ!」と思ったことが
ある人は多いはずである。

ここでちょっとした秘密をお教えする。上のような質問を
投げかけられたとき、ベストな答えは「無視」である。
とは、少々言い過ぎだが、基本的には「何でも良い」
のである。どういうことか?

日本人が陥りやすいここでの間違いは、この質問を投げ
かけている外国人側の質問の意図である。こういった質問を
投げかける彼らは、実はその場で自分の様子や、状況を
本当に聞き出したいからその質問を発しているわけでは
無いのである。

「答えを求めていないんなら最初から聞くな!!!」

と言いたくなる。その通りである。彼らは
答えをそもそも求めてないのである。

別の言い方をすると、

* How are you? (元気?)
* How's it going? (どう?)
* What's up? (どうした?どうしてる?)

は全て、

"Hi!"(よう!)

と置き換えて解釈して良いのである。

つまりこれらの質問は、「よう!」という軽い挨拶
とほぼ同義の意味で用いられ、文脈に合わせて
まじめに答えなくて良いのである。

返答の仕方としては、

自分も同じ事を繰り返しても良いし、単に
"Hi"や"Hey!"でも良い。「よう!」に対して「よう!」
と返せばそれで終了である。

(正確には、ちょっと知人とすれ違ったときに
使われた場合。一対一でじっくり会話をしているときに、
もしくはすれ違い様でも足を止めての会話になる時に
この質問をする場合は、ちゃんと答えを求めている
ので無視しない様に(^_^)。)、

つまり、

知人: What's up? (よう!)
自分: What's up? (よう!)

知人: What's up? (よう!)
自分: How are ya? (よう!)
 
知人: How are you? (よう!)
自分: Hey! (よう!)

知人: How's it going? (よう!)
自分: Hi! (よう!)

でバッチシなのである。明日から自分もバシバシ

* How are you? (よう!)
* How's it going? (よう!)
* What's up? (よう!)

を外国人に投げかけてやろう(笑)


さらにもっと突っ込んだ、もう少し応用的な対応に興味
のある方は、「すれ違いざまの挨拶、発展編」へ

2009年1月6日火曜日

カルチャー英語とは?

この読み物のタイトルに戻る

海外での生活には英語が欠かせないが、一言に英語と
いっても色々な要素があると思う。

この読み物では、意外と一般的には意識されていな
い(と思う。。)、ある英語の要素について書いてみたい。

まず、学校や仕事場などで勉強をすることで学べる、語学
としての英語を、対比のために「コミュニケーション英語」
とする。

逆に、このコミュニケーション英語とは別に、カルチャーの
経験からしか学べない部分の英語があると思う。これを
「カルチャー英語」ととりあえず呼ぶ事にする。

この読み物で考えたいのはこの、カルチャー英語の
部分である。

日常生活では、このコミュニケーション英語が使えれば、
意思伝達のための会話は十分成り立つ。

しかし、国際環境でより踏み入ったことをしようと思うと
まずこの「カルチャー英語」の存在に気づく事になり、
それがいかに大切で、ときにはコミュニケーション英語より
も大事な場面すらあることを体験する。

まずはじめに、コミュニケーション英語とカルチャー英語が
どのような場面で必要か、自分なりにリストアップしてみる。

* コミュニケーション英語:

学校で授業を受ける、就職活動をする、会社で仕事をする、
買い物をする、銀行にいく、食事をする、友達を作る、
友達と会話をする、ルームメイトをつくる、等。


* カルチャー英語:

友達との会話を本当に楽しむ、映画・テレビを本当に楽しむ、
ルームメイトの存在をエンジョイする、異性との会話を楽しむ、
政治をする、リーダーとして人をまとめる、プレゼンをする、
会議をする、欲しい物を手に入れる(笑)、等。

あくまで個人的なリストであるが、カルチャー英語が必要な項目が、
より海外での生活を充実させる為に大切なものが含まれている事は
分かってもらえると思う。

逆に、コミュニケーション英語ができれば、生活上は不便はしない事も
分かると思う。

この読み物は、

「英語はだいぶ慣れて来たのに、どうしても外国人とつるむと
 どうも楽しくない」、

「日常会話はだいぶできるようになったのに、外国人とグループで
 フリートークになると会話に参加できない。。。」、

「仕事はできるのだが、社内政治となるとさっぱりだ」、もしくは

「外国人の異性の友達、恋人をつくりたい」

といったことを考えたことのある人に読んでいただくと、
面白いと思う。

次はさらにもっと具体的な定義を考える。

「カルチャー英語は、通常の生活からは学べない?」へ

補足:海外のカルチャーを吸収する上で、注意しなくてはいけない事

「海外での生活の上で日々心がけている事 Part. 1-a」へ戻る
「海外での生活の上で日々心がけている事 Part. 1-b」へ戻る

さて、この辺の話はたまに間違ったニュアンスで伝わってし
まうことがあるのだが、外国人と極力時間を過ごす事は、
アメリカの文化に染まる事、またはかぶれる事が良しと
しているのではない。

また、日本人、日本文化を敬遠した方が良いという事でも
ない。

海外で勝負する為には、英語と、その生活環境の
カルチャーは絶対に無視できない事である。いかに
異文化のカルチャーを体験していないと、生活、
仕事に不利な事が生じるかも日々体感している。
そんな経験から、早いうちからそういった部分に対応
できる事は海外で成果を出す為にプラスになると自分は
思う。

しかし、あくまでも自分のアイデンティティー、
カルチャーは日本であり、だからこそこういった
苦労がある。

一つ注意しなくてはいけないのが、外国人と過ごす
時間が長くなり、外国のカルチャーに身を置くと、
生活に必要な貴重なカルチャーを勉強できる代償
として、いろいろと悪い外国の習慣にもさらされる
事になることを知っておいた方が良い。

例えばドラッグがその例である。外国において
ドラッグは日本人が思っているよりかなり日常に
存在する。

これはとくに自分の様に外国のカルチャーに多く
の時間身を置いているとなおさらである。

そんな中、外国人が日本人よりドラッグを軽く
見ているからといって、それはやはり日本人
としてのアイデンティティーをもって判断した
方がよい。

カルチャーを学ぶ、カルチャーにつかる、イコール、
外国人の感覚をそのまま鵜呑みにするという事では
ないことを一言書いておきたい。

「海外での生活の上で日々心がけている事 Part. 1-a」へ戻る
「海外での生活の上で日々心がけている事 Part. 1-b」へ戻る

2009年1月5日月曜日

日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 1

日本人と外国人とでは、おおきく仕事に対する姿勢に違いがある。
どちらが良い悪いと議論するのが目的ではないが、外国で仕事を
する以上はその違いをまず知ってく必要がある。

代表的な物を挙げると、


日本人:

* プロジェクトは言われた物に進む
* タスクは与えられた物を行なう
* 昇給は与えられた物を受ける
* 昇進は与えられた物を承諾する
* 仕事を共にする相手の、個人的な好き嫌いを会社には持ち込まない
* 上司の命令は基本的に聞く。疑問が有る場合は上司に言わず、
  同僚と話す。
* 自分の生活、家族も大事であるが、仕事も大事。仕事の方が優先さ
  れる場合もある。
* 仕事に対する責任感が強い。自分にまかされている仕事は、
  与えられた時間内でこなせないようなものは、サービス残業して
  でもこなす。
* 残業はそんなにたいそうな事ではない
* 残業をしなくては行けない場合は、サービス残業もする
* 上司が仕事をしている場合は自分も帰らない
* 部下が仕事をしている場合は自分も帰らない


外国人:

* 行きたいプロジェクトを自分で要望する
* 行ないたいタスクを自分で要望する
* 昇給交渉を自分からする
* 昇進を自分から願い出る
* 共に仕事をしたい人、したくない人を主張する
* 上司の命令を100%鵜呑みにしない、疑問があれば疑い、
  上司と話し合う。
* 自分の生活、家族を仕事より優先する
* 自分の休暇の必要性を主張する
* 仕事に対する責任感はあるが、自分にまかされている仕事が、
  与えられた時間内でこなせないようなものである場合は、
  そのことを上司に伝え、タスクを少なくしてもらうか、
  もっと人数を投入してもらう。
* 残業を嫌い、時間通りに仕事を出る
* 残業をしなくては行けない場合は、その見返りを求める
* 上司が仕事をしていようが、自分の帰る時間には帰る
* 部下が仕事をしていようが、自分が帰る時間には帰る


自分で書いていて思ったのだが、不思議なくらい姿勢が正反対である。
初めに書いたが、どちらが良い悪いと議論するのが目的ではない。

お互いにカルチャー的な背景があり、両者には両者の美徳がある。

日本のカルチャーは、勤勉で、責任感が強く、まじめに仕事に取り
組む。上下関係を尊重し、それによって組織がうまく動く。

外国のカルチャーは、自己を尊重、主張し、自分の生活を第一と
する。自分の主張をする以上は、逆に言うとそれに見合った成果を
出さなくてはいけない状況に自分を置く事になる。そういった性格
の社員をうまくまとめ、動かす組織、リーダーが存在する。

このカルチャーに起因する仕事に対する姿勢の違いはあって
当然で、両者にはそのような傾向になった、歴史的なきちんとした
理由がある。

さて、問題は、この片一方がそのカルチャーを、もう一方の
カルチャーに持ち込んだときにどうなるかである。

日本人が、日本のカルチャー下で仕事をしているのであれば、
当然日本のルールに従うのが普通である。日本人の仕事に対する
美徳は尊重されるはずである。

逆に、外国人が、外国のカルチャー下で仕事をするのであれば、
それもそこのルールに従って良いはずである。

では、日本人が、この外国のカルチャー下で仕事をする場合、
もしくは、外国人が日本のカルチャー下で仕事をする場合、
どうであろうか?

これは、きちんと両者の違いを理解し、自分に合った新しい
カルチャー下での、対応方法を考えなくてはならないであろう。

次は、仕事に対するカルチャー的な姿勢の違いを、意識せず
異国のカルチャーに持ち込むと、どのようなことが起きるかを
具体例を通して考える。

「日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 2」へ

Social skills(社交性)の位置づけ

まず始めに、Social skillsの位置づけをしてみる。

生活環境の中に置けるSocial skillsについて感じる
事を羅列してみる。

* 欧米人はエレベーター内、移動中、ジャグジー内での
  沈黙に違和感を覚える。
* 欧米人は会話のあいだの「間」に違和感を感じる。
* アメリカ人は社交性の無い外国人の友達に、冗談まじりに罪悪感を
  与える(^_^)。(半分冗談だが、こういう風に感じている外国人は
  多いと思う。つい最近、スウェーデン人とこの話をした際に、
  「あるある」同意していた(笑)。)
* 「社交性がある」 = 「大人」
* 「社交性が無い」 = 「子供」
* 沈黙の多い友人関係は楽しくない

もちろん全て個人的意見であり、ひとによって感じ方は全く違う
はずである。また、社交性が無い事をマイナスとしてとらえない欧米人、
アメリカ人も沢山いる。

しかし、カルチャー的に上記のような傾向があり、生活している
と感じる事は間違いない。

逆に我々の慣れている日本のカルチャーは、

* 比較的会話の必要の無い所では会話はしない
* 慣れている人でないと社交的にはならない
* 一概に、「社交性がある」 = 「プラス」、
 「社交性が無い」 = 「マイナス」ではない。
* 沈黙や、「間」というのに慣れており、それが生活の中に
  いつも存在し、普通である。

アメリカにいる日本人がよく「シャイである」や、「社交性が無い」
と言われる事があるのだが、こういったカルチャー的な違いがある
からであると自分は思う。

次はこういった違いが、どのように社交性として現れ、
どう生活、仕事と関係してくるかを考えてみる。

「Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 1」に進む

2009年1月4日日曜日

自分の知人をパーティで見つけたら...

「ドアの話」に戻る...

今まで目にして来たGentlemanな行為の中で、自分が感心した
ものをもう一つ紹介する。

こんな状況を想像してほしい。自分が、会社仲間の集まる
何らかのパーティに参加しているとする。その場には自分と、自分の
Significant Other(旦那、奥さん、彼氏、彼女の総称)と一緒に
参加しているとする。

そんななか、パーティーに遅れて一人の男性が到着する。彼は
会社の仲間のため、自分は知り合いであるが、Significant Other
はこの男性との面識が無いとする。自分はパーティ会場の入り口と、
カクテルの用意されているキッチンとの間に立っており、たった今
入って来た知り合いは、とりあえず飲み物をとりにキッチンに向う。

向う途中に自分と知人がすれ違うのだが、到着したばかりでキッチン
に向っているので、そこで立ち止まりじっくりと話し込む状況では
ない。

まず自分とその知人はかるい挨拶をする。そしてその知人が
自分のSignificant Otherの存在に気づく。そこでその知人の
とる次の行動がすごくその人のGentlemanの心得を表すと思う。

パターンとしては4つほどある。(ちなみにこれはタイミング的に、
自分がその知人にSignificant Otherをまだ紹介していないと仮定する。)

1. Significant Otherの存在に気づくが、見てみぬふり、もしくは
「ちらっ」とだけSignificant Otherをみる。いわゆる「チラ見」である。

2. "Hi"(こんにちは)と一言挨拶する。ただこれはどちらかというと、
失礼に当たらないように最低限の挨拶である。きちんと笑顔で言わ
なかったり、言い方によっては、ついでの挨拶に見えてしまうかも
しれない。

3. "Hi, I'm ~, I work with ~"(こんにちは、〜です。〜と仕事をして
います)といった風に自己紹介をし、笑顔を忘れず自分から手を差し
伸べ握手をする。ついでな感じではなく、きちんとSignificant Otherに
自己紹介をする。

4. (3)に加え、"Are you enjoying the party?"(「パーティを楽し
んでいる?」)と一言小話をする。

この状況で、自身の知り合いと話をする際に、(4)ができている人は
意外に少ないのである。

ちなみにこういった状況はよくあるわけで、パーティであろうが、
ランチであろうが、仮に自分が男性であるとすれば、一緒に
旦那や彼氏の仕事仲間の集まりに行っている女性側からすれば、
自分の知り合いの集まりではないため、奥さんや彼女はその
場では部外者であり、第三者の気分になるだろう。

この設定においては、知人のSignicicant Otherと話を
しないことは無礼にはあたらないが、そのような状況での
女性の置かれた立場を配慮し、一言でも小話をしてくれると、
本人としては気持ちがよいであろう。そして、その配慮ができ
るのはすごく大人の行為であると思う。

これを初めて目にしたとき自分に当てはめてみた結果、(1)では
無かったが恥ずかしながら(2)であった。。。こういった状況で
自分はやはり知人のSignificant Otherにまできちんと会話を
派生させていなかった。

さらにもうちょっと極端な例を挙げてみる。

昨年の科学技術賞の授賞式に出席していたとき、自分は会場
前方の受賞者テーブル、会社の他の知り合いの人たちは
後方のテーブルに座っていた。

途中で会社の知り合いが何人か自分達の座っているテーブルに
「おめでとう」を言いに来てくれる。自分達は席に座っており、
相手からしたら短い立ち話である。

そんな中、自分と一言話をする際に、横にいるSignificant Other
にきちんと自己紹介をし、小話までしてくれた人が一人だけいた。
その場には会社のリーダも数多くいた中、一人だけであった。
話を簡潔にするため彼を「A」とする。

授賞式という極端な設定では、受賞者に会話が向かうのはごく
自然な事であると思う。そんな中、きちんと隣にいるSignificant
Otherが第三者にならないようにと、この状況でも会話の配慮を
しているのは凄いと思った。当然その「A」と彼女はその場が初対面で
面識は無い。

ドアの話と同じだが、自分が「おっ」とおもうGentlemanの
行動は、多くの場合、会社のリーダー達にみうけられる事が多い。

「A」は、2006年にデジタルドメインを買収した現オーナー
の一人である。


「A君の贈ったクリスマスプレゼント」へ進む
この読み物のタイトルに戻る...

2009年1月2日金曜日

ドアの話

この読み物のタイトルに戻る...

アメリカに来て間もない頃こんな事に気づいたことがある。

ある日、仕事仲間6人ほどとランチを終え、会社に歩きながら
戻って来た時である。ジョシュ(男性)が一歩先へ進み、
みんなの為に横へよけ、会社の入り口のドアを引いて開ける。

みんながドアを通り、笑顔でジョシュを見る人、「ようっ」
といった仕草をする人、ありがとうと言う人。

ジョシュは最後にみんなが自分の開けたドアを通ったら最後に
会社に入って来た。毎日見ている自然な光景であったがその日は
ちょっとその光景になぜか関心を持った。

その時の構成は自分を含め6人は全て男性、年齢は20代から
40代まで、国籍はごちゃ混ぜである。ジョシュはアメリカ人で
その中で一番年配、自分はその中で一番若かった。

なぜこの光景にその日だけ関心を持ったかは分からないが、その
とき思ったのが、「そういえばこっちの人は男女、年齢かまわず
ドアをきちんと人の為に開けるなあ」であった。

そのときの自分のドアに関しての認識は、気になる女の子に
かっこつけるためにGentlemanぶってやるぐらいだった(恥)。
だからなおさら気づいてからはジョシュの行動が気になっていた。

それからずいぶんの間、人とドアをくぐるたびに、どういった人が
ドアを人の為に開けているかを観察してみた。

結果、ドアを開ける傾向が強いのは、年配で人生経験が豊富なひと、
会社で地位の上の方の人、であり、この条件に当てはまっていると
男女ともに差はなかった。そのころの友人の中で、30以上、
リーダー的地位の人は例外無く皆、こういった状況ではドア
をみんなの為に開けていた。

逆にドアを開ける傾向が少なく見えたのは、若い、もしくは
人生経験が少ない人、会社での経験が少ない人であった。
当時の自分は見事このカテゴリーに的中で、ドアは気になる
女の子に開けるものと勝手に思っていた。。。

この違いに気づいてからは、その意味が分かっていたわけでは
ないが、なんか誰に対してでも自然とドアの開けられるグループの
人たちが自分には立派に見えた。

変な言い方かもしれないが「ドアを誰にでも自然と開けられる
人になりたい」と思った。

そこで、まず次の日にやってみる。ランチの帰り道に、
いつもならジョシュが一歩先に出るところを、意図的に数歩先を
あるき、自分が横によけてドアを開けてみる。いつもはジョシュに
ドアを自然と開けてもらっていた立場の為、立場が変わると
すごく不自然な感じがした。むしろ居心地が悪かったのを
覚えている。

唐突だが「Gentleman」とはどういう意味であるだろうか? 
あえてGoogleを使わないで考えてみる。

自分が日本で生活していた頃、何となくイメージしていたのは
外国のテレビや映画で見る「女性に優しい」、「女性に対してドアを
開けてあげる」、といった程度の認識だった。

今現在の自分の中の定義は、

「Gentleman」=「大人」 である。

「女性に対して」や「〜をする」は全く関係ない。

自分の尊敬するリーダー達は、皆みんなの為にドア
をきちんとあけられる。あたかもそれが大人としての
マナーであるかの様に。自分にはそれが今では大人
としての余裕に見えるのである。

一緒に仕事をしていて、自分の事しか気にしなかったり、
自分勝手な人より、周りの人に気が配れて、チームや
周りの人に大人の余裕が見せれるひとのほうがリーダー
のイメージとして頼りがいがあるのは言うまでもない
だろう。

大人であるから周りの人には気を配り、優しくする。
女性、お年寄り、子供に対しては、これはむしろ言うま
でもないといった感じである。

逆に考えてみよう。会社で自分が頼りにしなくては
いけない存在の人が、何であれ大人のわきまえている
べくマナーができていないとしたら。少々上司として
頼りない気がする。

つまり、ここのカルチャーでは、リーダーが、ボスと
して、大人だから皆の為に気を使う。これが大人
としてのしるしである。

だからこそ、自分も「ドアの開けられる人」になりたい。

「自分の知人をパーティーで見つけたら...」へ進む...