2009年12月22日火曜日

「Articulation skill」の重要性 --- Part.2

「Articulation skill」の重要性 --- Part.1に戻る

Part.2は、なぜこの「Articulation Skill」が、海外で働く
上で重要であると自分が思うかを掘り下げてみたい。

まずはこんな経験を披露してみる。

仕事をする上で、過去の仕事の経験等から、自分が認めて
もらっている分野がいくつかある。例えばその分野が必要な
新しいプロジェクトが入れば、自分が相談を受けるといった
分野である。

そんななか、その分野が必要なプロジェクトに参加していた
際に、どのミーティングに参加しても自分の意見が無視される
といった経験をした。

このプロジェクトのセッティングとしては、自分の他に、同僚の
Aという存在があった。

この項目は、書き方を間違えるとAに対する愚痴に聞こえてしまう
可能性があるのだが、状況分析の為の例ととらえてほしい。

その仕事の中でのミーティングにおける会話はこんな感じである。

上司: 「で、〜についてはどう思う?どういった手法が
ベストであろうか?」

A: 「〜の方法や、〜の方法がある。」

上司: 「うん、そうか!確かにその通りだ。それは良いアイディアだ。」

自分: 「〜の方法や、〜の方法もある。こういった方法もうまくいった。」

上司: 「...」

上司: 「それでA、お前の手法についてだが、〜、〜。」


このプロジェクトにおいては、このような感じのミーティングが
自分にとって数多くあった。そして、議題は自分の過去の経験や
プロジェクトにおける実績のある分野にもかかわらずである。

ひどい場合、それでも食いついて意見をしていくと、仮に正しい
有用な意見を言っていたとしても、自分が煙たく扱われる場合さえ
ある。実際に、こういった場面に出っくわすとかなりきついし、
こたえる。いままでの自分の経験はどうなったのだ?とも思いたく
もなる。

もう分かるかもしれないが、このAと自分では、Articulation Skill
にかなり差があったのである。Aは自分の同僚の中で、このスキルが
抜群に優れていると思う。

当たり前のことかもしれないが、人は「正しい」意見より、
「正しく聞こえる」意見を聞く。人によっては「正しく聞こえる」
意見から「正しい」意見を見分けられる人もいるかもしれないが、
例えば上司がその人の専門ではない知識を部下に求めている場合は、
その見分けは難しく、やはり正しく聞こえる意見を聞くであろう。

さて、ここまでキツい状況は極端な例ではあるが、Articulation Skill
の重要さを自分が実感した良い例である。さらに極端な場合は、
仮にAが間違った意見を言っていたとしても、状況は変わらなかった。
これは正直キツい。「あの人がものを言うと、何を言っても正しく
聞こえる」という人に出会ったことがある人はいるのではないだろうか?

このように、正しいことを言っているはずなのに、議論において
負けることを経験すると、このArticulation Skillの必要性
にいやでも気づく。

自分の場合、一度のミーティングで数回このような場面に出くわ
すと、解決の足しになる経験のある人の意見を聞きたくないのなら
じゃあいいよ(大人げない。。。)、と意見をする気をなくしていた。

(これをおまえはミーティング中にフリーズすると親友や、
マネージャーに怒られる。)

そして、以前はそのArticulation Skillのある人を煙たく思ったり、
なぜ自分の意見を聞いてくれないのか、さらには間違った意見でさえ
正しいように言う方が悪い(これは実際にいかんが。。。)、などと
自分の意見を聞かない人のせいにしていた。

さて、ここで親友に一度ガツンと言われたことがある。ミーティングに
おいて、正しい意見を言い、チームをあるべく方向に導くのはリーダー
としての仕事だろう。もうそういった責任が有る以上は自分一人の
仕事ではないのだから、フリーズは許されないと。

その通りである。しかし正直、同時にその意見は「キツいなあ」とも
思った。自分なりに簡単にあきらめていたわけではないからである。

発言の仕方を色々工夫したり、Aの発言方法を見習ったり、
マネージャーに意見を聞いたり、いろいろ試したのだが、その
プロジェクトはどうしてもミーティングにおいてAの意見に
競り勝てなかった。

これはその人のArticulation Skillが極めて高かったのもあると思うし、
そのプロジェクトのその上のリーダーがそういった性格、能力を評価
し過ぎたというのもあるかもしれない。しかし、理由はどうであれ、
そのプロジェクトにおいては自分はリーダーとして失格である。

さきにも書いたが、このプロジェクトは極めて極端なケースでは
ある。全てのプロジェクト、ミーティングがここまで難易度が
高いわけではないし、ここまで競争が激しいわけでもない。

いまの自分のArticulation Skillでも通常は発言できるのだが、
こういったシビアな状況があるという事を経験できたのは、その
プロジェクトに参加した事による一番の収穫だったかもしれない。

さらには、想像するに、ポジションがより上がればもっとこういう
状況はより増えるであろう。

ちなみに、ポジションがうえであれば、うえであるほど、みんな
このArticulation Skillにかなり長けている。さらにはそこまで
上がった人々は、みな社内政治、自己アピールのスキルにも長け
ている。これからはさらに、こういった人々とミーティングを
重ねていかなくてはならないし、意見が対立した場合、議論に
勝たなくてはならない状況もある。

結局、原因は、自分のArticulation Skillの低さにあったと
思う。英語は日本人にとって第二外国語であるから難しいのは
当然だが、それももう責任が有る以上は言い訳にはならない。

仮にこういったシビアなミーティングにおいても、きちんと
プロジェクトをうまくまわす為に必要な意見を、人々に「聞かせる」
Articulation Skillを覚えなくてはならない。

最後に、いままで10年ほど、自分は英語圏における
コニュミケーション能力や生活能力を上げる為に、私生活を含め
意識的に外国人のみと生活をしてきた。にも関わらず、この
Articulation Skillの重要性に気がついたのは比較的最近である。
上のような悔しい思いをしないと気づかないからかもしれない。

また、日常生活を、何年も英語で外国人とのみしているだけでは、
苦手な人にとっては上の例のようなシビアなミーティングで、
満足いくようなArticulation Skillは身に付かなかった。

つまり、自分の様に苦手な人は、意識的にそれを上達させて
いかないと身につかないと思う。

Part.3は、上達の活路を見出す為に、英語における
Articulation skillとは、具体的にどういうスキルかを、
自分なりの定義で掘り下げてみたい。


「Articulation skill」の重要性 --- Part.3へ

2009年12月3日木曜日

「Articulation skill」の重要性 --- Part.1

いま自分の中で旬な英単語がある。

「Articulate」という単語をご存知だろうか?
自分は、ここ数年まで、接する事のない単語であった。

面白い事に、日本語にはこれに相当する単語が無い。

辞書を引くとこんな感じである。

* 英語:

Expressing oneself easily in clear and effective language
(http://www.thefreedictionary.com/articulating)


* 日本語:

〈考え・感情などを〉明瞭、効果的に表現する.
(http://ejje.weblio.jp/content/articulate)


* 自分なりの、今の生活環境にあった定義はこんな感じであると思う:

「自分のその場で思い浮かぶ考えを、瞬時に、簡潔に、誤解無く、説得力をもって、表現する」

である。

この「Articulation skill」、こっちの環境で仕事を
経験すればするほど、重要になってくる。特にこのブログ
のテーマの一つでもある、国際環境におけるリーダーシップ
においては、無いと致命傷とも言えると思う。

このことに気づくのが自分はちょっと遅かった。もっと
はやく気づきたかった。この項目を書く事により、いつか
どこかで誰かが、自分と同じことを目指した場合、自分より
早いタイミングで気づいてくれると、うれしい。

英語におけるArticulation skill、最近マネージャー
に頻繁に言われる、リーダーを目指す上で、自分が不得意で、
磨くべくスキルである。

もちろん、英語においてのコミュニケーションの時のみ
の話ではない。ただ、その重要性が、ここのカルチャーでは
さらに増すと思う。

「オバマ大統領の演説を見れば誰でもそれが重要な
ことぐらいわかるだろう?」

「そんな事はよく一般的に言われていることではないか?」

と突っ込まれそうだが、思うにこの話はもっと奥が深い。

このArticulationの話、もう1ヶ月ほど書いているのだが
いまいち表現したい事がまとまらない(文章におけるArticulate
ができていない?(笑))。書けば書くほど、書きたい事が増える。
なので細かくパートにわけ、沢山書いて行こうと思う。

Part.1は、Articulationの定義、および問題提起に
とどめておく。

Part.2は、自分の経験から、具体例を通して、なぜこれほど
に重要と感じるかを書きたいと思う。

「Articulation skill」の重要性 --- Part.2へ

2009年11月5日木曜日

熱の入った外国の会議で発言していくには 〜前編

国際環境での会議はどんな感じか 〜状況説明」に戻る
国際環境の会議でなぜ発言できないか 〜現状分析」に戻る



もし自分が仮にビジネス向けの英会話スクールの
カリキュラムを組むとしたら、こんなクラスを一つ
設けると思う。

「会話の流れを意識し発言の終わりのタイミングを読む」

クラスである。

このクラスの授業では、誰かがなにか英語で物を話して
いるときに、その話している内容の詳細に注意を払うの
ではなく、その話がどのタイミングで終わりそうかを、
感覚的に予測する練習だけを繰り返しするのである。

このクラスの必要性を考える為に、

「国際環境での会議はどんな感じか 〜状況説明」
「国際環境の会議でなぜ発言できないか 〜現状分析」

を参照していただきたいのだが、いろいろな国の人の
まざる仕事場で、論議のヒートアップした会議に
参加すると、仮に自分の精通した議題のミーティングで、
英会話が得意であっても、なかなか話に参加ができない
という現象が起こる。

上の読み物に書いた通り、自分はそれが日本の
会議における発言形態と、個人の主張の強い環境に
おける会議の発言形態が異なることによると思う。

この個人の意見の強いカルチャーにおいて、複数の
人が熱の入った論議をしている様子を観察すると、
みな、とある同じタイミングで発言を始めている事に
気づく。

それは、前の人の話がまさに終わりそうというタイミング
で、次の人が自分の発言を始めているのである。これがみな
このビミョーなタイミングを、意識的か無意識か、きちんと
押さえているのである。

このタイミングがもう少し早いと、誰かの話の真っ最中に
自分が話しだすので、さすがにそれは失礼である。逆に
それがもう少し遅いと、誰か他の人がそのタイミングで
次の意見をもう言い出しているのである。

つまり、前の人が何か意見を言い終わってから自分が
話そうとすると、なかなか自分の話す機会は回ってこない
のである。

思うに我々にとって英語など母国語ではない言語での
コミュニケーションにおいては、話の内容を理解することには
通常集中するが、流れや終わりのタイミングまで意識
することは自然とはしていない事が多い。(自分だけ?)

それに気づいてからは、こんな試みを取り入れるようにした。
会社への通勤時間や、どこか目的地への車での移動時間など、
ラジオ番組のパーソナリティがゲストとなにかディスカッション
をしているものを聞く(ゲストの数が多ければ多いほど良い)。

そして、とにかくまずは話の内容ではなく、流れを聞き取る
訓練をするのである。このひとは今何の話をしていて、どの辺
で話の落ちが来そうか、や、いまは話の状況説明をしているから、
それが終わったらなにか自分の意見を言うだろうな、そして
その後がこの話の終わりであろう、といったことに集中をしてみた。

話の内容ではなく、流れに意識を移すと、以外とその話の終わりが
どの辺で来そうかといったことを予測するのはそんなに難しい
事ではなくなる。

話の流れを意識する事に慣れて来たら、これを人前でやることは
オススメはしないが(笑)、つぎはラジオ内で話している人々の会話に
参加をしてみる。誰かが話をしていると、その人の発言の
終わりを、流れを意識しながら待ち、その終わりのタイミングを
予測してその話に対してなにか意見を言ってみる。そのタイミング
が他のゲストと合えば成功である。

そして、こういった事を移動時間にやっていると、無意識的に人の
話の終わりのタイミングを想像できる様になってくる。幸運なことに、
意識さえすればこれに慣れる事は結構簡単である。

ラジオの他に、自分がよく使っていたのは、トークショーなど
テレビにおける、複数のコメディアンが熱い議論を交わしている
番組である。コメディアン各々が、テレビで自分が一番面白い事を
言わなくてはならない様子は、こっちの熱の入ったミーティングに
似ているのである。その発言のタイミングに、自分も参加できる
ようになれば、現実のミーティングにおいて、自分も発言の
タイミングがつかめる様になるのである。

参考までに、"Chelsea Lately"というコメディーのトークショー
があるのだが、そのなかの、コメディアンが数人でテーブルを囲み
冗談を言い合っているところなどが参考になる。

ちなみに、このタイミングの感覚を覚えると、日常生活における
友達との雑談も自然とうまくなる。議論の激しいミーティングほど
シビアではないが、数人の友達とわいわいとどうでもよい話をして
いるときに、会話に参加しやすくなるのである。英語における会議や
友達との会話に参加しにくい思いをした事のある場合は、考えてみると
面白い。

次回は、この発言のタイミングを読める様になってから、
外国人の会議を観察しているとさらに見えてくる、細かい
テクニックを紹介したい。


「熱の入った外国の会議で発言していくには 〜後編」へ進む

2009年10月31日土曜日

仕事のスマートな主張の必要性

「日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 1」に戻る
「日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 2」に戻る


自分はいまだに上司やマネジャー、仕事仲間に繰り返し
言われる事がある。

「お前はもっと自分のやった仕事を、社内の同僚や、
特に上司にアピールしたほうがいいよ。」

と。

これを初めて言われた時に思ったことは、日本人的
な感覚からして

「んん?」

であった。なぜ自分の仕事をわざわざ同僚や
上司に主張しなくてはならないのか?と思った。

仮にきちんと仕事をしているのであれば、そんな事は
他人に、ましてや上司にアピールする事ではない
だろうと。

自分の中の基本理念はこうである。仕事とは、自分が
やりがいがあり、自分で作りたい映像があり、よい仕事
をすれば、その結果により次の仕事や、よりやりがいの
ある次のタスクにつながる。

そして、結果をだしていけば、成果はいずれ自然
とついてくる。つまり、自分の仕事ぶりを、そのため
わざわざ上司やマネージャーに主張する必要など無い
はずである、といったものである。

しかし、現実はこうではない。このブログのいろいろな
ところのテーマにもなっているが、自分の生活している
環境は、個人主義で自己主張の強く、それが普通な社会
である。

自己主張の強い環境においては、少なくとも最低限自分
の得るべく権利は主張しなくては、自分の得るべくものが
得にくいという現実がある。それは周りがみな主張している
ためである。

(この読み物はその応用編で、自分の権利を自己主張の強い
社会で守る基礎は、
「日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 1」
「日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 2」
を見てほしい。)

自分の知り合いの中には、仕事が一つ終わるたびに、
自分がこれだけの仕事をしたのだから、これだけの手柄
(休暇、給与、精進など)が欲しいと、交渉している
ひとも結構いる。

こっちのカルチャーは、自分の権利を主張することが
横柄であるという感覚はない。もし上司やマネジャー
が自分の要求した権利に同意をしなかったら、その理由を
言われ、「そうか」と話が終わるだけである。

自分の思う得るべく権利を、仮に間違っていても、主張
すること自体は問題はない。もちろん、ただただ主張する
のではなく、このタイトルにもある「スマートな」主張が
必要であるが、それはまた後の読み物で具体例を書きたい。
(ちなみに、もし度が過ぎた主張をした場合でも、あとで
「あいつあんなむちゃくちゃな要求しやがったよ」と冗談で
言われるぐらいである。さすがにそれを繰り返しするの
はまずいが。。。おそらく我々日本人的な感覚では欲しい
物を全て主張しても足りないぐらいであろう。)

「欲しい物は欲しいと言わなくてはいけない」

この一言も、自分が何度も上司やマネジャーに言われている
セリフなのだが、自分が最初にこれを言われた時はかなり
驚いた。しかしこれが自己主張の強いカルチャーの日常であり、
こっちの人はこれが普通と思っているという事実を、海外で
働く我々は認識しなくてはならないと思う。

日本人の感覚からすると、むしろ欲しいものを主張するのは
いけないことといった感覚の方が強いと思う。謙虚に、与え
られる物を頂戴するというのが我々のカルチャーであり、
美徳である。

「日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 1」にも
書いたが、どちらが良い悪いかを議論するのが目的ではなく、
両者には文化に基づいた理由があると思う。考えなくては
ならないのは、片一方のカルチャーがもう片方に入ったときに、
いかに対応するかであると思う。

話を戻すと、「お前はもっと自分のやった仕事を、社内の
同僚や、特に上司にアピールしたほうがいいよ。」という
意見は、それをみなしているよ、そうでないとここでは
損をするよ、という事実に対するアドバイスである。

同じ仕事をしている人がいるとすると、やはり自己主張
をしていない人は、それをしている人においていかれて
しまう。残念ながらこれが現実である。

みなが自分の主張をするのが普通のカルチャーにおいて
は、最低限、自分の得るべく権利を守る為に、彼らの主張
の仕方を覚える必要があるというのが現在の自分の考え方で
ある。仕組みやカルチャーが自分の権利をまもってくれない
場合は、それを守る手だてを覚えるのは自分の責任であると
思う。

そのためにも、こっちでは我々も仕事のスマートな
主張の仕方を覚えなくてはならないと思う。

次は、上の基本理念である、自己主張など気にせず、
仕事をした人が、きちんと自然と手柄を得られる
仕組みを作るための考えを書いてみたい。

2009年9月27日日曜日

待ち時間における社交性の極意?

「ジャグジーにおける社交性」に戻る

つい先日、昼食を会社の隣にあるカフェで買っている
ときのことである。

自分はその日のオススメのタイ風カレーをテイクアウト
用にオーダした。その日はカフェが混んでおり、そういう
日はオーダーができるまで大体10分ほどかかる。

オーダーと清算を終え、番号札をもらい、あとはレジの
先で10分ほど待つ状況である。

そんななか、後ろからカフェに会社のプロデューサーが
一人で入ってくる。彼とは何度か仕事をしており、すれ
違い様に一言、二言、程度の雑談をかわす関係ではある。

また、プロデューサーという役職上、自分より年齢は結構上
で、つまり、彼とは仕事上の関係のみで、特に仕事の外で
つるんだり、社内でよく話をするほどの仲ではない。

自分の現在居る場所と、カフェの入り口、そしてオーダー
をする場所は少し離れており、彼が入って来た時点でお互
いの存在に気づいているかいないかは微妙なところである。

現時点での自分の社交性は、この彼と自分の仕事上の親し
さ、および今のカフェでの状況で、雑談をしたら良いか、
しなくても良いのか、と、迷う程度の段階である(恥)。

もう少しカフェでの状況を説明すると、いままですれ違い
様に通常一言、二言しか話さない程度の仕事の関係の相手
と、要は10分ほど待ち時間が一緒になるのである。

もっと条件を加える(笑)。そのカフェにはレジの先の
自分の待っている場所に、お土産屋がある。その周りに
は雑誌や土産やの商品など、オーダーの待ち時間をつぶ
す為のものがいろいろとある。そして、自分はその雑誌
を読んでいた。

さらには、そのプロデューサーは待ち時間つぶしの為か、
新聞を片手に持っていた。

つまり、その時の自分の頭の中の葛藤はこうである。

このまま、距離もあるし、親しい関係ではないので、気づ
かないふりをして自分は雑誌を読み続けよう。(どうせ彼
は新聞を読むだろうし)。正直、現在のお互いの関係上、
これがそこまで失礼にあたることはないような気がする。
しかし、そのあとに残るものは、自身の社交性の無さに
対する後悔、そしてお互いの存在には気づいてはいるの
に、話をしないあのびみょーな空気をつくってしまう。

それとも、顔見知りではあるので、それは失礼で、読んで
いる雑誌をやめ、彼がオーダーをすませたらアイコンタクト
をとり、10分の雑談に臨むか、である。しかし、
現時点の自分には、正直親しくない彼との10分間の
英語での雑談はつらい。

結局、自分の目指す所は後者のため、読んでいる雑誌を
横によけ、辛い道を選ぶ(笑)。

しかし、実際におこった事はこうであった。

まず挨拶を交わし、how are you? how's it going?
から入り、彼が自分のプロジェクトの事を聞き、一言、二言、
自分が説明し、逆に自分が彼の現在のプロジェクトのことを
聞き、一言、二言、説明が帰ってくる。10分の雑談など
ではなく、ただの挨拶の延長であった。

そして、なんとそのあとは、自分はさっき読んでいた雑誌
に戻り、彼は持っていた新聞を読み始める。驚いたことに
これが全く違和感が無かったのである。

結局、自分から相手の存在に気づき、現在やっている
ことを一時中断し、アイコンタクトをとり、挨拶程度の
雑談を交わす。その行為により、お互いまた自分の
読み物に戻っても失礼でもなく、違和感も無い。顔見
知りの同士の待ち時間に気まずい空気も流れなくなる。
とても社交性のある二人の大人の行動ではないか!!!(笑)

冗談はさておき、この出来事により気づいた事は
こうである。

こういった状況において、社交性のある大人としての行動を
することは、そんなにハードルが高くないという事である。

つまりは、あまり親しくない顔見知りの人が近くにいる、
長い待ち時間における社交性を身につけるためには、
いままで自分の思っていたようなその待ち時間中ずっと
雑談をする必要はなく、その場にいる相手の存在に敬意を
はらうためのミニ雑談をするだけで良いのである。そして、
その後は、各々のやっていた事に戻ればよいのである。

こうする事により、気まずい空気も作らず、自分も大人と
しての社交性のある行動ができ、10分間親しくない人と
雑談を続けなくても良いためハードルも低い。

ちなみに、これはジャグジーにおける社交性
書いた事と原理は同じである。それがジャグジー
だけの話ではなく、どこでも適応されるという発見
であった。

ちょっとこれから待ち時間に雑談をするのが辛い
人と会うのが楽しみになってきた(笑)。

「Social skills(社交性)はかなり大事!」の
読み物を全て表示する

2009年9月13日日曜日

ジェームズの話

まじめな英語雑談上達話や持論ネタが続いたので、
ひさしぶりにGentlemanについて書いてみたい。

自分はジェントルマンシップと、海外でのリーダー
シップには大きく関連性があると考えている。大抵
自分の尊敬するリーダー達はこのジェントルマン
シップに長けており、また、日々このジェントルマン
シップに感心させられる様な人は、その人が何らかの
リーダーのポジションを仕事等でこなしていることを、
あとから発見する場合が多い。

今回は、数年前イギリスで仕事をしていた時の、
友人ジェームズの話である。

ジェームズはイギリス人で、奥さんはアメリカ人
である。二人は長い間アメリカで生活をしており、
自分が知り合った数ヶ月前に、アメリカからイギリス
のジェームズの故郷に住居を移した所であった。

つまり、ジェームズにしてみれば自分の故郷であり、
文化も、知り合いも、慣れ親しんだ環境である。

逆に、彼の奥さんからしていえば、自分の慣れた
アメリカのカルチャー、それまでの生活環境や交友
関係など、すべてから離れたばかりの状況である。

また、そもそもイギリスに住居を移した理由が、
ジェームズの仕事の為、仕事環境の知り合いも
全てジェームズの人間関係である。彼の奥さんは
自分が知り合った時点ではまだ新しい地で仕事を
はじめておらず、本人の仕事上の人間関係もできる
前であった。よって、ジェームズの奥さんはかなり
ホームシックになり始めている時期であった。

そんななか、ジェームズの奥さんの誕生日が訪れる。
その日仕事のあとジェームズとおちあい、彼の家に
バースデーを祝いに行く途中、ちょっと途中でピック
アップしなくてはならない友人がいるという。

自分は誕生日なので何とも思わず、ジェームズと
市内にあるアパートに乗り付け、そこでジェームズの
友達のベッカをピックアップする。

そして、ジェームズと、ベッカと自分の3人で、
バースデー会場であるジェームズの家につく。

我々3人は家の中に入り、ジェームズはキッチンにいる
奥さんに後ろから声をかける。そして振り返ったジェームズ
の奥さんは、半分悲鳴のような声を上げ、「ベッカ!
何であなたがここにいるの?!?!」と。なんだか
アメリカドラマのいちシーンの様であった(笑)。

なんとこのベッカは、アメリカに住んでいるはずの、
ジェームズの奥さんの大親友であったのである!しかも
この日の数日前に、ジェームズの計らいの一部として、
わざわざベッカに出発前に奥さんに国際電話をしてもらい、
アメリカからかかっているという電話の着信もつけ、
さらにはホームシックの話や今年の誕生日にはベッカが
参加できないといった趣旨の話をしてもらうといった
までの下準備をしていたのである。本当に手の込んだ
サプライズである。

ジェームズからホームシックになっている奥さんへの
サプライズバースデープレゼントは、遠いアメリカにいる
奥さんの一番の親友を、イギリスに誘い遊びに来てもらう
為のセットアップとその旅費だったのである!

このサプライズの種明かしは、自分は事前にベッカを
ピックアップした時点で聞いていた為、奥さんほどの驚きは
無かったが、その話を車で二人から聞いたときに、ジェームズ
の気遣いにはかなり驚いた。

もう察しがつくかもしれないが、ジェームズは自分の尊敬
する上司の一人である。


「パーティーに持っていく気の利いたプレゼント?」に進む
この読み物のタイトルに戻る...

2009年9月3日木曜日

社内政治が嫌い、または不得意で不快な思いをしている時に

突然だが、こんな状況を想像してみてほしい。

例えば人物Aが長年あるバーで働いており、Aはその店の
まわし方を誰よりも知っており、その店での経験は誰よりも
長く、知識も経験も豊富であるとする。いずれはそこの店長
になる事が目標で、そのポジションをうまくこなすためには
何が必要かを、いろいろ考え、勉強や努力もしている。

あるとき今の店長が店をやめる事となり、そのポジションを
引き継ぐひとを現在の社員のメンバーから決めなくてはいけ
ないとする。

そして、次期店長に選ばれたのは、「オーナーのお気に入り」
の「人気者」のBであったとする。Bは「クール」な性格で、
特に「管理職に気に入られる」様なタイプの人である。
(この上の4つのキーワードの理由は後半で説明したい。)

Aは自分の方がこの店長の仕事にBより向いていると思って
おり、なぜ自分ではないのだと、不愉快な思いをする。

さて、このAの状況に自分がいると仮定した場合、
どう思い、どういう行動をするだろうか?

このような状況で、以前自分が思い、とっていた行動は
大抵こんな感じであった。

* むかつく

* Bを選んだオーナーのせいにする、もしくは
オーナーに見る目がないと愚痴る

* Bはごますりがうまいといった趣の悪口を友達と言う。

* 自分はこの店には向いていないと考える

* 自分は社内政治に向いていないと考える

* この店は自分のことが分かっていない。こんな店で
働くのは無駄だから、店を辞める、もしくは辞めると
愚痴る。または自分と同じような境遇にいる同僚と、
そんな会社辞めた方がいいんじゃないといった会話をする。

さて、ここ数年思う事は、上のような考え方は間違って
いたということである。少なくとも、上のような考え方
よりも、より自分にとってプラスになる考え方があると
考える様になった。

このような話から自分の得た事は2つである。

一つ目は、どんな理由であり、自分が何か目指す物がある
とする。それにたどり着くための仕組みが自分の理想とは
合わない場合、どうするか。それに対する愚痴を言う、
自分には合わないとあきらめる、場所、環境が変われば
良くなると思う(これは多くの場合、結局どこに行っても
大抵の仕組みは一緒なので、その考えは現実逃避の場合が
多い)。というのが以前の自分の考え方であったが、いまの
考えはこうである。

この場において、愚痴を言うのは甘かったということである。
本当にそこを目指す価値が自分にとってあると判断し、その
仕組みが気に食わないのなら、まずはその仕組みに従い、
その流れに対応するくらいの辛抱がまずは必要である。
そして、そのときにまだ自分が仕組みが気に入らないので
あれば、自分がその仕組みを変えられる位置まで辿り着い
たら、そのときに自分の理想に変えれば良いのである。

今現在その仕組みをコントロールできる位置に居る人々は、
当然彼らにも理想があり、そこに辿り着くまでは、だれか
他の人の、自分の理想とは異なる仕組みの中で、辛抱もし、
現在その位置に居るのである。その辛抱もせずに、自分の
理想論や愚痴を言ったり、その場を逃げるのはあまいと
いうことである。

二つ目は、Bのことをごますり上手といった様な見方
をしているうちは、自分はまだ管理職になるために
必要な、いろいろな性格やスキル、人間性を備えて
いないということである。

上のBの人間性の説明は、以前の自分の見方であり、
すべて愚痴、皮肉、ひがみといった種の表現である。

しかし、上の例で、Bを「クール」と表現したのは、
言い方を変えれば大事なクライアントと対応する際に、
仕事を任せてもらう上での信頼を得る為のリーダーと
しての大切な人間性である。どんなに個人として仕事
ができても、例えばクライアントにこの人の率いる
チーム大丈夫か?と思われるようなイメージではリーダー
はつとまらない。

「人気者」と表現したのは、リーダーの立場にいる
人は、たとえばキツい仕事を受けたときに、みんなが
きついなか、その職場を自分の存在、言動により和める
ぐらいの、社交性が必要である。

「オーナーのお気に入り」とう表現をしたのは、
仕事では、各役職ごとにその仕事の性質により求め
られる人間性が異なると思う。管理職には管理職ゆえ
の仕事に対する責任があり、それをこなす上に必要な
人間性もまた異なる。「管理職に気に入られる性格」
という表現も、つまりはリーダーの立場の人からみて、
リーダーの仕事に必要な素質があるという意味でもある。

つまりは、Bのことを上のような捉え方をしているうちは、
自分は、まだまだあまかったということである。

個人としての仕事のスキルと、組織を率いるリーダー
に必要とされるスキルは全く違うと思う。このスキル
の違いの存在は一般的に広く認知されているかもしれない。

しかし、自分の様に、そのリーダーシップに必要なスキル
が備わっていない場合、その存在や必要性に気づかず、
なぜ自分がその役割を任せられないのかが分からない
ものであると思う。

自分はずいぶんと長い間こういった疑問を持っていた。
そして、自分が辿り着けないそのポジションに辿り
着く人を、上のBの説明のように、マイナスのイメージ
でとらえていたのである。

恥ずかしながら、このマイナスの考え方から抜け出すの
にずいぶんと時間がかかってしまった。この考え方が
正しいかは自分の経験がもっと増さないと分からない
だろうが、これが現時点での自分の経験から信じている、
社内政治、リーダーシップに対する考え方である。

少なくとも、以前の考え方よりは成長している
事を願う(笑)。

2009年8月30日日曜日

ドアの話2

「ドアの話」に戻る

ドアの話を書いてずいぶん経ったが、つい先週また新しい
ドアの経験をした。たかがドアの開け閉めだが、自分には
これも国際環境で生活する上での貴重な意味がこもってい
るように思えて面白い。

以前書いた様に、自分の生活している環境では、外国人が
ドアを年齢、性別かまわず人のために開けてあげるのは、
人生や仕事の経験が豊富で、大人やリーダーが兼ね備えて
いるべくマナーであると自分は考える。

そして、まだそれが新鮮であったころの自分が、先輩達のまねを
して同僚にドアを開けようと試みたときは、経験不足のためか
違和感を覚えた。自分には自然にそれができはしなかったのである。

最近では、まだまだではあるが、その頃よりはそういった
気遣いができる様になってきた気がする。

そんな中、先日朝会社についてから、コーヒーを隣のカフェで
買って来た帰り道である、カフェで一緒になった会社の幹部
の一人と雑談をしながら戻る際に、会社の入り口のドアをその
人の為自分が開けた所、なんと彼はもう一つのドアを自分で
開けて入っていってしまった。

あれれ?と思った。タイミング的にもその開いているドアを
くぐった方が自然なような気がした。ただの自分の気にし過ぎ
かもしれないし、タイミング的なものでしか無い可能性も高い。

しかし自分には、幹部という立場のひとが、自分にドアを
開けられることが少々居心地が悪かったということだったの
ではないかと想像している。要は自分が、この人から見て
まだドアを開けられて快適な大人には見えないということ
のような気がする。

確かに、自分より大人で(これは年齢ではなく人としての
大人さ)、会社でのリーダーシップの経験などが長く
豊富な知人が、自分の代わりにここでドアを開けていた
ことを想像すると、この人が自然とその開いたドアを
くぐる姿が、悔しいが想像できてしまう。


「ジェームズの話」に進む
この読み物のタイトルに戻る...

2009年8月27日木曜日

[読み物タイトル] 外国における社内政治

社内政治はどこの国でもあるであろうし、日本にも得意な人、
不得意な人といると思う。

海外で仕事をしていて頻繁に思う事が一つある。仮に日本国内
で社内政治がニガテでない場合でも、海外(自分の場合はアメリカ)
に来ると、英語における社内政治がからっきしだめであるという
ことが起きるということである。

そして、ここで強調したいのが、我々日本人が海外における
社内政治がニガテな理由は、一般的に思われがちな「それは
英語が苦手だから」という理由より、もっともっと深い
というところである。一言で言うと、このブログのいろいろ
なところで表現している日本と西洋の文化的な違いが理由で
あると思う。

自分はこれが我々が海外でリーダーシップを発揮しにくい
大きな理由の一つであると考えている。

この読み物は、自分の経験する、海外における社内政治
のあり方について、そして、日本人にとってつまずき
易い点、それの対応方法も、見つけられれば書いていきたい。

2009年8月16日日曜日

「ニガテ」の話 Part.1

読み物タイトルに戻る


持論の項目の一つ目は、自分がかなり愛着の深い言葉「にがて」に
ついて書いてみたい。

一般的ににがてという表現は、マイナスの見方があるといって間違い
はないと思う。自分が不得意である事、一生懸命やってもうまく
いかないこと、自分より周りの人の方がうまくできる事、上達したい
けど何らかの適正にかける事、周りの人の方が自分より上達が早い
こと、またはあなたには向いていないからやめなさいと家族や友人
に言われる事、といった定義でおそらく文句は言われないであろう。

よっぽど恵まれた人ではない限り(というか、そんな恵まれた人は
いるのであろうか?少なくとも自分の周りにはそんな人はいない)、
通常我々はいろいろな所でこの自分のにがてにぶつかる。

なぜこのにがてという言葉が自分には愛着があるかというと、
これはいままでいろいろなニガテにぶつかってきたなか、
どうすればそのニガテを克服できるかと、いろいろと試行錯誤
してきたからであると思う。

もうかなりの数のニガテに悩まされてきたなか、とにかく
それを克服する「試み」には相当の労力を費やして来たつもり
である。

もちろんその中でなんとか克服できたものもあれば、どんなに
頑張っても克服できなかったものもある。はたまた、不満足では
あれど、自分に必要な程度克服できたものも有れば、有る程度
上達して来たが労力に疲れて克服をあきらめてしまったものもある。
一つだけ言える事は、今まで(もちろん今でも)相当自分のニガテと
対面して来たつもりである。

面白い事に、克服できた、できないという事実とは別に、「ニガテ
克服の試み」を数多くやってくると、ちょっと変わった面白い
「ニガテ」の定義が見えてくるようになった気がする。この
試行錯誤を数多くこなして来たことにより見える様になったと
思う、自分が信じているこの自分なりの定義を書いてみたい。

さて、深く掘り下げるまえに、そもそもニガテを克服する必要
などあるのだろうか?苦手なことよりも、自分の得意なことを
見つけた方が良いのではないか?

これはその通りであると思う。自分の得意な物を選んだ方が
上達も早いし、理にかなっている。何か上達するのに例えば
いちいち人の3倍の時間がかかっていたら参ってしまう。
自分の適正を判断することはすごく大事な事であると思う。

しかし、適正と自分の上達したい事は残念ながら必ずしも
一致するわけではない。もちろん、自分の「これっ」と
決めた事が自分が得意であったらそんな幸運な事は無い。

しかし、この「幸運」なひとは自分が考えるにほんの一握り
ではないかと思う。なので、自分がなにか上達したい事、仕事に
したい事が、仮に自分には適正がなく、ニガテである場合や、
得意な事が見つけにくい場合はどうすれば良いのか?
このように、大半の場合は、誰でもなんらかの克服したい
ニガテが有るはずである。

そんななか、こんなことを考えてしまったことが有る人もいる
かもしれない。ニガテなことが多く、特に才能のない自分は
上達して何かをうまくなることはできるのだろうか。。。
なにかをうまくできている人は、どうせ自分には無い何か
恵まれた才能や環境、適正があるだろう。。。過去に努力
したけどうまくいかなかった自分には、また次も努力しても
どうせニガテは解決しないだろう。。。

自分もニガテの克服を意識的に試み始めた頃にこのような
事を考えていた。

ニガテと分かっていることにチャレンジすることは、それなりに
覚悟が必要であり、リスクもあると思う。例えば得意な事に
チャレンジするのは簡単である。得意なのだからうまくいく
可能性も当然高いであろう。得意であれば上達も早いし、
それを感じる事ができるため、持続のモチベーションも上げ
やすいであろう。基本は努力するだけそれに見合った上達を
するから、努力をするもの比較的苦にはならない。

逆に、ニガテなことは上達も遅いし、本当に自分はこれが最終的
にうまくなるのだろうかと、不安になるし、時間の無駄なのでは
と疑いたくもなる。頑張ってもあまり上達しないことを持続する
のはかなり難しい。端で自分が苦労していることをすいすい
上達している人をみると、かなりブルーになりやる気も無くなる。
どうせこれもうまくいかないのではないだろうか...と。

では、自分の何か上達したいことが自分が苦手だったら、運が
悪かったと思いあきらめるしかないのか。

ここで2つ自分が信じていることは、「ニガテであっても、
適正が無くても、大丈夫」と言う事、そして、ニガテなことの上達を
試みた場合、なんと得意な事に取り組んだ場合よりも、自分に有利
なことが多くあるという事である。この2つを考える様になって
からは、苦手なことの上達を試みることがあまり苦痛ではなく
なった上に、その試みがうまくいく率も昔に比べて高くなって
きたと思う。

Part.2は、具体的にニガテにまつわる自分の経験、および
上の2つのことを書いてみたい。

2009年8月7日金曜日

英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 (修正)

このテーマを続けて書いきたなか、Part.2で書いた
6つのステップのなか、第1ステップと第2ステップの
間にもう一つステップを足した方が、自分の経験により
そぐうような気がしてきた。なのでPart.1〜Part.3b
までの書き物に、ステップ1.5を追加してみた。

英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.3b

「英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.1」に戻る
「英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.2」に戻る
「英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.3a」に戻る

Part.3aで書いたが、まず日常会話、学校、仕事場での英会話が
快適になってきてから、英語の雑談になんとかチャレンジしようと
思った場合、この第2ステップにたどり着くのはどうやらみんなに
結構共通のことであるようである。

まず初めて雑談に参加しようと思うと、それがかなり難易度が
高い事に気づく。そして、初めのうちはうなずいたり、笑顔で
振る舞ったり、今イチ内容の分からない雑談にも分かった振り
をして笑ったりする。

そして、なんの理由であれ雑談に参加したい場合、できない
自分が面白くなく、次は無理矢理会話に参加をしようとする。
そして多くの人がたどり着くのがどうやら第2ステップの
様である。

自分の場合もそうだが、雑談に参加しようとすると、参加
できていない自分が嫌で、自然と参加する試みをするのだが、
雑談はそうそう簡単に習得できる物ではなく、結局雑談の
「ふり」を習得してしまう。

そもそも雑談とは、相手の存在を会話のやりとりで楽しむ
ものであると自分は思う。雑談ができるかできないかという
ことを気にしている時点でそもそも雑談をする意味が違って
きているのだが、あまりにも雑談できないことがショックで、
ずいぶんと長い間、雑談が「できる」ということがテーマに
なってしまっていた。

会話に参加できないから自分の日本人としてのアドバンテージ
である日本の話をする。仕事仲間との雑談であれば仕事の
テーマを持ち出せば、会話には困らない。いつもしている
テーマのある話なので、これには参加できる。また、みんなが
している自分の追いつけない会話に関しては、「質問君」に
なれば参加している感じにはなる。これらの第2ステップに
共通しているのは、自分の場合「雑談をしている自分」に
なる為に編み出した方法でしかなかった。そして、本来の
そこに居る雑談相手の存在を会話のやり取りにより
楽しむということをしていなかった。これに共感していただける
人はいるのではないだろうか。

では、自分が第2ステップにもし居る事に気づいてしまった
場合、具体的にどうすればよいのか。

まず自分が試みたのが、第2ステップにリストアップした、
「ふり」の会話をやめてみる事である。もちろん日本の話、
仕事の話、会話に対する質問、をしてはいけないなどと
言うルールは何処にも無いが、少なくとも自分はこの「ふり」
をやめる所から始めた。それはすなわち

-日本の話はしない
-仕事の話はしない
-会話に参加しているふりの為の質問はしない

ということになる。そして、本来の、相手の存在を
楽しむ為の会話を心がける様にした。

そして、いま振り返って考えてみると、Part.2で書いた、
第3ステップや第4ステップのようなテーマになってくる。

Part.4は、この第3ステップ、第4ステップをもっと掘り下げて
考えてみたい。

2009年8月2日日曜日

英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.3a

「英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.1」に戻る
「英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.2」に戻る

Part.3aは、Part.2で紹介した英語でのカジュアルトーク上達の為の
ステップをもっと掘り下げてみたい。

=== 第1ステップ ===
-英語で会話が理解できる
-言いたい事が英語で言える
=================

第1ステップはそのままである。英語でのカジュアルトークは
Part.1で書いた様に、英会話の中でも難易度が高いほうであると思う。
カジュアルトークを覚える為には、英語でのコミュニケーション
がまずある程度できる必要がある。

もしステップ1が難易度が高いと感じる場合は心配せず、まずは
意思疎通の為の英会話を習得することにターゲットを定めるのが
良いかもしれない。その場合は、「海外での生活の上で日々
心がけている事 Part. 1-a」
などをみていただけるとうれしい。

=== 第1.5ステップ ===
-日常生活をする上での必要不可欠な英会話、
学校での授業の会話、もしくは会社での仕事上の
会話を離れ、初めて雑談をしようと試みる。
-英語で雑談をしてみるとそれがかなり難しいことに気づく。
-雑談に全く参加ができず、うなずいたり、笑顔で会話に相づちを
うったり、今イチ内容の分からない雑談にも分かった振りをして
笑ったりする。
=================

ステップ1.5は、まだ雑談にあまり慣れていないときに、初めて
英語での雑談を試みると、まず初めに気づくのが、自分が日常生活で
使っている英語や、学校、仕事場で使っている英語とはちょっと別物で
あることに気づく。日本語とは違い、我々日本人が英語を覚えるのは、
留学や仕事といった目的がある場合が多いと思う。もちろん外国人と
雑談をする目的の人ももちろんいると思うが、自分の周りには学校や
仕事といった、英会話の目的が定まっている場合が多く、雑談というの
は比較的比重が小さい場合が多い。

そんな中、慣れていない雑談にチャレンジすると、ステップ1.5の様に、
テーマのある英会話なら参加できていたはずなのに、雑談となると話に
参加できないという経験をすることが多い。


=== 第2ステップ ===
-日本の事を話す
-仕事の事を話す
-質問をする
=================

第2ステップは、自分の中でちょっとこだわりのあるステップで
ある。それは、ずいぶんと長い間、自分はこのステップから先へ
進めずすごく苦労したからである。むしろ、このステップに居た
頃は、そもそも自分がそのステップに居た事すら気づいておらず、
それで有る程度カジュアルトークができていると思っていた。

しかし、どこか何か違うなあといった感覚がいつもあった。
ホームパーティや、飲みの場で一応会話はできるし、カジュアル
トークができていないとも自分では思っていなかった。しかし、
やはり何か外国人と会話をしていてもあまり楽しくないし、
進んでそのカジュアルトークの場に参加したいとも思えないし、
日本人と会話をしている時とは明らかに差があった。

そんな中、友達と話をしている中で、あるとき自分がいつも
同じパターンの会話をしている事に気づいた。それは、自分の
外国人としている会話は、ほぼ決まって日本のテーマの話か、
仕事の話、もしくは、自分が何かテーマのある会話に参加
していない時は、その場で行なわれている会話に、「それって
どういう意味?」や、「へー、そうなんだ、知らなかった」や、
「えっ、そうなんだ、もっと詳しく教えて」などといった具合に、
自分は「質問君」になっていた。

これは、一見自分が会話に参加しているように見えるし、自分が
話に参加している「気分」になることはできるが、先ほどいった、
「何か会話に参加しているはずなのに楽しくない」といった感覚が
残る。

これは今だから思うのだが、「会話に参加している」のではなく、
単に「参加しているふりをしている」だけだった様な気がする。

もちろん、雑談で友達と日本の話をして悪いわけはない。また、
仕事の話をカジュアルトークですることは多々ある。そして、
英語がネイティブで、カジュアルトークが大得意なアメリカ人
でも行なわれている会話に対して質問をもちろんする。

問題はこれらの項目ではなく、もし自分のしているカジュアル
トークが、これらの項目「のみ」から成り立っているとしたら、
これは自分が思うに、それは雑談をしてお互いの存在を楽しんで
いるのではなく、雑談をするための努力をしているだけで、
悪く言うと雑談をしているふりをしているにすぎない。
雑談とは、努力をしてする物ではないし、ふりをするものでも
ないし、いつもいつも同じテーマを話すのもちょっと違う気が
個人的にはする。

長くなったが、この第2ステップは以外と多くの日本人が
はまりやすいステップのような気がする。英語で日常会話
は結構できて、仕事の上での英語でのコミュニケーション
にもあまり不自由がなく、プライベートで外国人とたまに
時間を過ごす人の多くに、いままでこのステップに共感して
もらえる人が結構いた。もし、何かの理由で外国人と
カジュアルトークをしたくて、試みてはいるが、何となく
会話をしている気がしない、あまり楽しくないという
感覚のある場合は、自分がこのステップにはまっていないか
どうかを考えてみると面白い。

もし、この第2ステップに自分が当てはまると思う場合は、
Part.2のステップアップのリストが、カジュアルトークの
幅を広げる為の参考になるかもしれない。

Part.3bは、この第1.5と第2ステップに自分がいたときに、
具体的にどのようにステップアップを試みたかを書いてみたい。

「英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.3b」に進む

2009年7月29日水曜日

英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.2

「英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.1」に戻る


Part.2は自分の実践しているカジュアルトーク上達のための
試みを紹介したい。これだけ長い間実践しているのにまだまだ
自分も日々苦労している事を考えると、方法が自体が良くない
可能性も十分にあるが(苦笑)、もし自分と同じようなことを
必要としているひとの少しでもステップアップの近道になれば
このエントリーを書いた甲斐があるかもしれない。

カジュアルトークとは、一件すごく大きく、おおまかな定義で
ある様に思える。しかし、長い間英語でのカジュアルトークの
上達を試み、そして多くの日本人および外国人とこのテーマに
ついて話してくると、我々日本人がつまずく共通点が見えてく
るのである。

そして、その共通点が見えてくると、上達の為の具体的ステップ
が見えて来るような気がする。

少々話がそれるが、自分には自分なりの物事の上達方法がある。
すれはすごくシンプルで、少なくとも自分にはそれが自分にあった
上達方法であると信じている。それは、

1. 自分が何かを上達したい時は、まずその上達したい項目に
おいて、自分の現状、現在のレベルを把握することを試みる。

2. そして、自分の現状、現在位置をできるだけ正確に把握したら、
次のステップを探し、見つけ、そしてその次のステップができている
人を探し、観察する。

3. そして、現状にいながら、その次のステップを既に自然と
できている人を参考にしながら、自分も次のステップを少しずつ
失敗しながら試みる。

少なくとも自分は、このステップの繰り返しで物事のスキルアップ
を試みてきた。

話を戻すと、英語でのカジュアルトーク上達も全く同じ方法を
とっている。

まず初めに、自分なりにカジュアルトークのステップアップの
段階を把握する事から始めた。そして、それがつかめたら、
自分が現在そのどのレベルにいるかを把握し、その次のステップを
見据える。そして、その次のステップのカジュアルトークが既に
できている人を参考に、自分もその次のステップのカジュアル
トークを少しずつでも焦らず日々試みる。ここで大事なのは、
焦らず、そして次のステップを試みる際にうまくしゃべれない
ことは普通で、失敗する事に慣れる事である。

そして、それを繰り返しているとだんだん自分も次のステップ
に近づいて行くのである。繰り返しになるが、大事なのは、
焦らず、次のステップの試みは何度も失敗するのが前提であると
理解する事である。そして、なんとか時間をかけ、次のステップに
たどり着けたら、またその次のステップが見えてくるといった
感じである。

もっと効率の良い方法が間違いなくあると思うが、少なくとも
これが自分の実践している上達方法である。

物事がおおまかに定義されている事であればあるほど、この
スキルアップのステップが定義しにくいと思う。物によっては、
スキルアップのステップなど定義できないものもあると思う。

そして、それゆえ、上達に苦労する一番の理由が、自分の現段階
のスキルを正確に把握していないことであると自分は思う。

英語でのカジュアルトークは、一件そのステップが定義できない
ニュアンス的なスキルに思えるのであるが、ここで紹介したいのが、
試行錯誤した結果、自分の現在使っている上達のステップである。

* 自分なりの英語でのカジュアルトーク上達のステップ:

=== 第1ステップ ===

-英語で会話が理解できる
-言いたい事が英語で言える

=== 第1.5ステップ ===

-日常生活をする上での必要不可欠な英会話、
学校での授業の会話、もしくは会社での仕事上の
会話を離れ、初めて雑談をしようと試みる。
-英語で雑談をしてみるとそれがかなり難しいことに気づく。
-雑談に全く参加ができず、うなずいたり、笑顔で会話に相づちを
うったり、今イチ内容の分からない雑談にも分かった振りをして
笑ったりする。


=== 第2ステップ ===

-日本の事を話す
-仕事の事を話す
-質問をする

=== 第3ステップ ===

-趣味の話をする
-テーマのある話をする(知識や情報の話。
特に楽しい話ではなくてよい。)

=== 第4ステップ ===

楽しい、面白い会話をする。これは誰かと
話をした結果、何も自分および相手の為に
なってはいないが、話をしたこと自体が
楽しい会話。

--->ここから、話し方、話術が必要になってくる。
難易度がグンとアップする。

-経験談を語る
-面白い話をする
-面白い記事、情報を披露する
-自分の見た、笑ったテレビ番組、ラジオを披露する
-自分の見た、興味深いテレビ番組、ラジオを披露する
-自分の見た、面白い映画の話を披露する
-自分の面白い友人の話を披露する

=== 第5ステップ ===

-相手の面白い話に関連する自分の面白い話をする
-面白い話に、笑いを追加する
-冗談に冗談を付け足す

=== 第6ステップ ===

- ?

=================


以上が自分の現在見据えている英語におけるカジュアルトーク
の上達ステップであるが、自分にはまだ第5ステップまでしか
見えない。第6ステップは、自分が第5ステップにたどり着いたら
見えるのではないかと思う。

いくつか補足であるが、第1ステップがかなり難易度が高い
と感じてしまう場合は、これはカジュアルトーク自体が難易度が
高いからであると思う。

Part.1で書いた様に、カジュアルトークは英会話の中でも自分は
難易度が高いほうであると思う。カジュアルトークができなくても
海外で生活、学生生活、仕事は十分にできると思う。

もしステップ1が難易度が高いと感じる場合は心配せず、まずは
意思疎通の為の英会話を習得することにターゲットを定めるのが
良いかもしれない。その場合は、「海外での生活の上で日々心がけて
いる事 Part. 1-a」
などをみていただけるとうれしい。

また、その人の性格によって、ステップ1.5からステップ4までの
体験順序が変わるかもしれない。上に書いた順序は、いろいろな
人と話した中で、一番共通している並び方である。

英語でのカジュアルトークを上達したい人は、上のステップの
どの段階に自分が当てはまるかを考えると面白い。そして、自分の
まだ習得していないカジュアルトークのスキルが先にあることが
見えると、それを日々試みるだけで雑談のスキルが向上すると
思う。

part.3aは、上の各ステップをもっと具体的に掘り下げて考えて
みたい。

「英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.3a」に進む

2009年7月28日火曜日

英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.1

更新をずいぶんと怠っていたので、投稿復帰第一回目は
自分の結構こだわりのネタを書いてみたい。

それは、外国人との英語での雑談が、日本人と日本語で
無駄話をしているかの様に、楽しめる様になる為の自分の
実践している上達方法について書いてみたい。

これができる様になると、

* 英語で会話をするホームパーティーが楽しめる様になる。
(というか、その誘いが無い場合はその誘いもくるよう
になる(笑))。

* 仕事のあと、同僚と飲みに行くのが義務感ではなくなり
楽しみになる。

* 本当の意味で外国人の友達ができるようになる。

* 日本人以外の人/同僚からプライベートの遊びの誘いが
来る様になる。

* 外国人とスノボ旅行をする際の移動時間の会話が
怖くなくなる(笑)。

* 美容師さんと無理矢理会話をするふり、もしくは寝た
ふりをしなくて良くなる(笑)

* 仕事仲間とのランチが楽しめる様になる。

* 国際環境でリーダーになるために必要なSocial Skill
が大きく向上する。

* 外国人と恋愛ができる様になる。

海外で仕事をしている人であれば、上のいくつかの項目が
できたらなあ、と考えた事があるひとはいるのではない
だろうか。

具体的な話に入る前に、まずこのブログの色々なところでも
書いているが、ただ意思疎通が目的の英会話と、特に何も
テーマが無い時にお互いの存在を楽しむ為にする英会話
とでは、
会話の内容、および必要とされる会話のスキルが全く違うと
自分は考えている。

英語圏で幼少期、思春期の大半を過ごしていない限りは
(これは、幼少期の数年(4、5年間とか)海外で生活して
いた程度ではなく、幼稚園、小学校から、高校、大学まで
ぐらい、日本語より英語の方が楽といったぐらいの期間の人)、
日本人であればどんなに英語(コミュニケーション英語)ができる人
であれ、プライベートで英語で外国人と接し、それが日本人と
日本語で会話をしているのと同じ感覚で楽しめる人はそう
そういないのではないかと思う。それだけこの英語でのカジュアル
トークを本当に楽しむことは我々日本人にとって難しいもので
あると思う。

自分の興味から、いろいろな日本人の方とこのテーマについて
話す事があるのだが、あるとき自分が気づいた事は、自分も
含め、ほとんどの人がカジュアルトークをしている「ふり」
しかしていないと言う事であった。

この事に気づいた時は、自分には外国人の友達もおり、
仕事の外で一緒に外国人とつるむ事を結構していた。
会話や話題に詰まる事もなく、はたから見ればあたかも
会話を楽しんでいる様に見えたはずである。

しかし、自分が認めたくなかった事実は、行なっている会話
の大部分が「会話をする為の会話」であり、実際はほとんど
その会話を楽しんではいなかったのである。パーティーに
行った方が良いからいく、またはパーティに行かない自分が
嫌であるから参加する、そしてそのパーティで会話をしない
自分が嫌だから会話の為の会話をする。このような、会話を
する為の会話をずいぶんとやっていた気がする。

それゆえ当然自分には分かるのである。パーティーに参加して
も今イチ楽しくない。日本人と日本語で会話をしていた方が
楽しい。気心知れた友達でも英語での会話はあまり楽しめない。
移動時間は会話を持たせることにしか頭が回らず、できれば
一人で移動したい。

特に自分の国際環境での生活能力を上げようと意識的に外国人と
時間を過ごしていた自分にとって、この今イチ英語でのコミュニ
ケーションが楽しめないというのは今でも大問題である。

しかし、さすがに10年間もこれを意識し続けると、少しずつで
はあれカジュアルトークが上達して来たように思える。最近では、
稀ではあるが、ようやく、本当にようやく、日本人と日本語で
会話をしているような感覚で、英語での雑談が楽しめる時も
出て来た。

Part 2.では、今まで10年間試行錯誤してきた、自分なりの
英語でのカジュアルトーク上達方法を紹介したい。

「英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法 Part.2」へ

2009年7月27日月曜日

[読み物タイトル] 英語でのカジュアルトーク(雑談)上達方法

英語でのカジュアルトーク、雑談はかなり難易度が
高いと思う。この読み物は、日本生まれ、日本育ち
の日本人が、日本人と日本語で話しているかの様に
英語での外国人との雑談が楽しめる様になることを
目指し、自分が日々試みている方法を書いてみたい。

2009年7月24日金曜日

[読み物タイトル] 持論(自論)

この読み物は自分の信念というか、自分が現時点で
信じている自分なりの価値観を書いてみたい。

誰でも一般の流れとは少々違う見方、考え方、
捉え方があると思う。もちろんそれを妄信する
のは時には(多くの場合は?)危険であることは
重々承知しているが、逆に、時には世の中の自分
以外の全ての人間が同意しなかろうが自分の
信念を貫き通すべきである時もあるかと思う。

そんな自分なりの変わった考え方を書いてみたい。

更新再開

更新をやめてから気づくともう3ヶ月も経っていた。

無精になったわけでもなく、書く事に興味がなくなった
わけでもなく、ここアメリカで10年ほど働いたなかで
一番難易度の高い仕事に関わっていた。

ようやくその仕事が先週終わり、じっくり休んで
また書く余裕が出て来た。

ブログを読んでいただいている人には分かっていただける
と思うのだが、このブログはこんな映画のこんな仕事に
関わっているといった内容が書きたいのではない。

今回だけ、更新を3ヶ月も怠っていた原因を紹介してみる。

http://www.traileraddict.com/trailer/2012/trailer

2009年4月19日日曜日

fly high

この読物は成人向けの文章、内容、英語表現が含まれます。
未成年の方は御遠慮下さい。成年の方で、成年向けの文章、
英語表現が大丈夫な方のみ、以下のリンクをクリックして
下さい。


このリンクをクリックすると、成人向けの内容、英語表現の含まれる
文章に飛びます。

[読み物タイトル] おとなの英語

おもに恋愛まわりに出てくる、あまり日本では接する事の
少ない英会話の部分について。

この読物は成人向けの文章、内容、英語表現が含まれます。
未成年の方は御遠慮下さい。成年の方で、成年向けの文章、
英語表現が大丈夫な方のみ、リンクをクリックして下さい。


この読み物で不快感を覚える場合は、このカテゴリーは
飛ばしていただきたい。

2009年4月18日土曜日

更新不足...

このブログは、海外での生活を目指す人や、外国人
と接する機会の多い人に、読んでもらって本当に
為になるような内容のみを公開することを目標に
している。

また、更新頻度よりも内容を重視しているため、納得の
いかない書き物は公開せず、一つの記事を書ききる余裕の
ない時は書きかけの投稿をつめるといった作業をする
ようにしている。

書きたい項目は山ほどあり、このような書きかけの
文章も沢山あるのだが、やはり映画の締め切りが近く
なると、アメリカとはいえ労働時間が伸び、じっくり
書き込む余裕がなくなる。

現在仕事の佳境で、あと1ヶ月ほどで通常の状態に
戻れると思う。

2009年3月6日金曜日

リーダーシップに要求される英語力

読み物タイトル「日本人にとって、いち外国人として組織を
率いるのが難しい理由」に戻る



読み物タイトルでちょこっと述べたように、日本人が外国の
組織を率いるのがニガテな理由の一つに、やはり
英語という要素が多いにあるのは間違いないと思う。

この読み物の趣旨は、この想像しやすい英語という理由と
は別の、あまり一般的に認知されていない様々な理由を書いて
いきたいのだが、この項目の一つ目の書き物なので、あえて
王道の英語がなぜ難しいかというのを書いてみたい。

よくアメリカで見る組織のリーダーなどの求人情報
には、必ず条件として"excellent communication
skills"(ずば抜けたコミュニケーション能力)と
表記されている。これを初めて見た時は、「その
職でコミュニケーションが良くできなくてはいけない
のはあたりまえだろ」と思った。

これは日本語に当てはめれば想像がつく。たとえば会社の
幹部の人が、交渉や、ミーティングで、難しいコミュニ
ケーションをあまり把握できていないとしたら。もしも
ミーティングでクライアントの言った表現やニュアンスが
難しいのに、ミーティングの責任者が把握しきれて
いなかったら、これは大変であろう。

しかし今考えると、実際に、どうして、そしてどれくらい
英語のコミュニケーション能力がexcellentではなくては
いけないかは想像できていなかった。当時の自分に、
「じゃあ当たり前と思うなら、どのくらいなコミュニ
ケーションの能力が必要か言ってみろ」と誰かに言われて
いたら、「んんん,それは...」と答えられていなかった
と思う。

つまり、リーダーには"excellent communication
skills"が必要といろいろな所で言われ、当然のことの
様に思えるのだが、実際にはどれだけ難しい事かが自分
には全く分っていなかったのである。

一言で言うと、外国人の組織においてリーダーになる
ためには、母国語が英語である国の人より、英語がうまく
なくてはいけないのである。

これも日本に当てはめてみれば分かりやすいのだが、
組織のリーダーたるものは、若かったり、表現力がまだ幼い
チームメイトのコミュニケーションを補ってあげるのも
仕事の一部なのである。

母国語が英語であるひとでも、説明が得意な人もいれば
苦手な人もいる。または、人前で説明が苦手な人もいれば、
若いアメリカ人など、英語の理解能力がまだ比較的幼い
人もいる。

そういったチームメイトがたとえばミーティングで誰かに
指示や説明をされたとする。そして、その人が100%内容を
理解していない場合、その人の代わりに理解し、それを彼に
分かりやすく説明してあげるのはリーダーの責任である。
つまり、アメリカ人の理解できなかった英語を、自分が拾い、
補い、後で分かりやすく英語で説明してあげなくてはいけ
ないのである。

逆の例もある。

例えば会議でチームメイトが何かを説明し、その人が説明が
あまり得意ではないときはそれがうまく伝わらないことがある。
するとそのチームメイトの伝えたい事を、その場の彼の少々
表現が足りない説明から把握し、それをミーティング参加者に
代わりに分かりやすく説明し直さなくてならないのもリーダー
の仕事である。

つまり、英語が母国語の人が表現足らずで説明し、さらには
英語が母国語の人が理解できなかった内容を、リーダーは
同じ条件で彼らよりも理解し、よりうまい表現で英語で
説明し直さなくてはならないわけである。

難易度はさらにあがる。

通常の会話が難なく話せるひとでも、人前や、大勢の
人数の前では説明が苦手な人は沢山いる。これは母国語が
英語であろうが無かろうが関係ない。プレゼン、パブリック
スピーキングのスキルである。そして、たとえばミーティング
で自分のチームメイトがグループに何かを説明しようとするの
だが、プレゼンが苦手だとする。もう同じパターンだが、
この場合、リーダーは彼の代わりによりうまい英語の
パブリックスピーキングで代打をしなくてはいけないの
である。

これらの例をまとめると、外国人の組織で求められる
リーダーの英語のスキルは、英語が母国語の国の人より、
英語における会話の:

表現力、理解力、説得力、そしてプレゼン力が
長けていなくてはいけないのである。

これは正直かなり難しい...

これは英語が母国語ではない我々日本人に、いつか達成
できるゴールですら無いかもしれないが、少なくとも、
求められるものが把握さえできれば、それに向ってスキル
アップを試みる事はできる。

外国の組織の中でリーダーを目指す為には、まずは要求される
英語力を把握し、次にそれを目指す事が我々にできる事では
ないかと思う。その難易度を理解し、目指す所を決めることが
現実的な第一歩であると思う。

2009年3月3日火曜日

[読み物タイトル] 日本人にとって、いち外国人として組織を率いるのが難しい理由

なぜ日本人は外国がニガテか? 〜問題提起でも書いたが、
日本人は国際的に何をしても優秀であると思う。

そんななか、いろいろな能力に長け、国内には沢山のリーダーが
いる中、いち外国人として、その環境で上に立つような日本出身の
リーダーの存在がもっといてもよいような気がする。

別の言い方をすると、良い意味での日本びいきの無い環境に
おいて、我々はリーダーシップを発揮する事が苦手なのでは
ないだろうか。

もちろん、英語という言語の壁が大きいのは言うまでもない。
しかし、今の時代英語が話せる日本人は結構おり、英語だけが
理由では無いような気がしてならない。

自分が外国で日々試行錯誤するなか、我々日本人にとってむずか
しく、克服していかなくてはならないことを発見するたびに
書いていきたいと思う。

より国際環境が身近になって来ている今こそ、こんなテーマを
考えてみたい。

「リーダーシップに要求される英語力」へ進む

2009年2月28日土曜日

B君の些細な行動

以前友達数人と南カリフォルニアにある
Six Flagsという遊園地に行った時である。

みんながチケットを買い終え、ゲートをくぐった
あとに、友達の女の子がふとチケットを落とす。

すると横にいた友人のB君は反射的に自分のチケット
をその子に手渡す。

その瞬間は自分はB君は何やっているのか?とおもった。
渡されたその子も「えっ?」といった反応だったの
だが、B君はチケットを渡した次にその子の落とした
チケットを拾い自分の分にする。

落ちたものを拾ってあげることは普通の事かもしれ
ないが、このとっさの状況で自分の分を先に手渡す
行為を見たのは初めてだった。

考えてみるとすごくGentlemanな行動である。ただ人の
落としたチケットを拾ってあげるのではなく、きれいな方の
自分のチケットを先にその子にわたし、汚い方をひろって
自分のものにしたわけである。些細な違いかもしれないが、
その細かい気遣いに感心した。

あとで思ったのだが、あの場でB君がチケットを拾い、
汚れたものがもう一つあるなか自分の方を渡そうとしたと
すると、チケットを落とした子は「いえいえ」、と遠慮を
していたかもしれない。反射的にチケットを先に渡したB君が
かっこいいのである(笑)。

B君の気遣いにはいつも驚かせられる。そして、このB君は
まだ若いのだが、会社の中の有力な時期リーダー候補である。


「ドアの話2」に進む
この読み物のタイトルに戻る...

2009年2月23日月曜日

ジャグジーにおける社交性

「Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 2」にもどる

こんな経験に共感できる方はいるのではないだろうか。

一人でも、二人でもよいが、大勢でさわぐほどの
人数でない状況で、海外において公共のジャグジーに
入りに行ったとする。そして、ジャグジーに入っている
自分たちは日本人によって構成されているとする。

ジム内の施設でも良いし、アパート内の公共プール、
スノボ旅行中の宿のジャグジーでもよい。

そして自分たちだけが入っているときに、外国人の
カップルがあとから入ってくるとする。この時点で、
海外で仕事をし始めた頃の自分がとった行動は、基本は
まったくコミュニケーションをとらないというものであった。

向こうが"Hi"「こんにちは」と挨拶をすれば、返事は
したものの、自分から挨拶をしたり、会話を試みたり
ということはしなかった。

さらには、我々はこういったシチュエーションにおいて、
即席で他人と英語でコミュニケーションをとるのに慣れて
いない、もしくはとりたくないため、「俺に声をかけるなよ」
的な雰囲気を出し、わざと目を合わせないといったことさえも
する。そういった行動をとった経験のある人は自分だけで
はないであろう(苦笑)。

そして、通常は、目を合わせようとせず、会話をしたく
なさそうな雰囲気を醸し出している人に対して、相手は
わざわざ挨拶はしてこないし、コミュニケーションを図ろう
ともしない。

そしてそのあとにまっているものは...
かなりの近距離に向かい合って人がいるのに、目を
あわせず、見てみぬふりをする数十分がつづく。
これはかなり気まずい。

こんな理由から、ジャグジーに入る時はだれも他人が
いない方が気が楽だ、「頼むから誰も入ってこないでくれ」
と考えた事があるひとはいるのではないだろうか。
または、まだあまり出たくもないのに、外国人が入って
来たらこの状況の気まずさが嫌なため出てしまう、なんて
経験をしたことがある人は多いのではないか。自分はこの
気まずい状況にしてしまう自分の社交性の無さがかなり嫌で
あった。

つい最近友達の外国人に彼らの意見を聞いてみた。
このような自分の説明する状況は感じた事はあるか?と。
すると、帰って来た答えはおもったよりもマイナスなもの
であった。

その友達曰く、確かに日本人に限らず、アジアのひとはこう
いう場で話しかけても良いのか戸惑うとのことだ。あたかも
1メートル先にいる自分たちが全く存在しないかのように
まったく無視するのはちょっと変で、なぜなのかと逆に聞き
返された。場合によってはそれは失礼にあたるかと聞いた所、
そういう解釈をする人もいるのではないかとの返答であった...

もちろん、誰でも社交的で無い気分の時もある。また、
ジャグジーにゆっくりしようと思い行っているのに、面倒
くさい英会話を他人とする気分でないという理由もすごく共感
できる。社交的な気分なときは頑張って雑談をすればよいが、
何かゆっくりでき、この気まずい状況を回避する方法はないで
あろか?と思った人に、ちょっとしたミニSocial Skillを
紹介する。

やらなくてはいけない事はすごく簡単である。これは仮に英語が
しっかりと話せなくてもできるのでうれしい。とりあえずは
Eye Contactで書いたように、こちらからEye Contactを
試みる。そして笑顔で"Hi"と挨拶をする。これだけでも相手に
自分はきまずい雰囲気をつくるような社交性でないということが
伝わる。これが第一歩である。(というか、このEye Contact
と笑顔はどんな状況においても社交性の基本である。)

次に、ここがミソなのだが、(残念ながら、この"Hi"だけでは
狭い空間で向かい合うジャグジーという設定においては、まだ
気まずさは回避できない)、何か一言雑談をするのである。

英語で雑談というと難易度が高く感じる人もいるかもしれないが、
一言で良いためなんとかなる。いくつか決まったパターンを用意
しておいても良いかもしれない。大事なのは、Eye Contact、笑顔、
"Hi"に加えて、一言でも雑談を交わすと、他人としての壁がとれるため、
不思議な事にその後近距離で会話が無くても気まずくないのである。

さらにはすでに雑談を交わしているため、その後見てみぬふりを
する必要も無いし、一言会話をしたあとは、ふと近距離で目を合わせ
ても不自然でないのである。通常はこの場合向こうから笑顔をして
くる。なので笑顔で返せばEye Contactもそこからは自然にとれる。

つまり、ちょっとジャグジーにゆっくり休みたくて、日本人と
いる場合は、あとから外国人が入って来たり、または先に外国人が
入っていた場合、Eye Contact、笑顔、"Hi"、そして一言雑談をし、
すぐに自分の友達との日本語の会話に戻ればよいのである。これさえ
行なえばその後の時間が気まずい事はなくなる。これはまだ英会話が
苦手な場合も、何度か練習すれば行なうのはそう難しい事ではない。
なのでジャグジーの気まずさが苦手なひとは、ぜひトライしてみては
どうか。

さて、これができる様になったら、次はそのまま雑談を続け、相手の
カップルの存在を楽しめる様になることが理想である。そうなると、
ジャグジーにおいて誰か他人の外国人がはいってくる事が楽しくさえ
なってくる。

そういった社交性を身につける為には、もっとカルチャー英語
スキルをあげる必要があるが、それはまた別の記事で書きたいと思う。

最後に参考までに、簡単な一言雑談の例をいくつか。

* 自分のアパートにおいて(どこでも使える)

自分: "Hi" (こんにちは)
相手: "Hi" (こんにちは)
自分: "Do you come here a lot?"
(ここ(ジャグジー)ヘはよく来るのですか?)
相手: "yes/no/sometimes" (はい/いいえ/たまに来ます)
自分: "oh nice :)" (そうですか)
相手: "How about you?" (貴方はどうですか?)
自分: "Once in a while/I come here, probably
couple of times a week." (たまに/週に何度か)
相手: "ah nice" (そうですか)


* ジムにおいて

自分: "Hi" (こんにちは)
相手: "Hi" (こんにちは)
自分: "How was your workout?" (エクササイズはどうでした?)
相手: "um, it was great" (よかったですよ)
自分: "oh yea? :)" (そうですか)
相手: "How about you?" (貴方はどうですか?)
自分: "It turned out pretty good" (私もよいトレーニングできましたよ)
相手: "ah nice" (そうですか)


* スノボ旅行中の宿において

自分: "Hi" (こんにちは)
相手: "Hi" (こんにちは)
自分: "How was your day?" (今日の山はどうでした?)
相手: "oh, it was great/oh it was really cold/etc." 
   (良かったです/寒かったです/等)
自分: "oh nice :)" (そうですか)
相手: "How was your day?" (貴方はどうですか?)
自分: "Oh, I had a great time too" (私もよい一日でした)
相手: "cool" (そうですか)



「待ち時間における社交性の極意?」に進む

「Social skills(社交性)はかなり大事!」の
読み物を全て表示する

2009年2月20日金曜日

ルームメイト達のSocial skill

先日の夜、自分の家に帰って来た時の出来事である。

家に帰り、キッチンへ向うと、ルームメイトが友達と
3人でリビングルームで雑談をしていた。自分の
ルームメイトはドイツ人で、その日はドイツ人同士で
集まっていたようで、話している言語は当然ドイツ語
である。しかし、自分がキッチンへ入ったことに気づく
と同時に、3人が英語で話し始める。

ここできちんと状況を伝えたいのだが、キッチンから
リビングの3人がいた場所までは10メートルほど
離れており、さらには自分はキッチンの後ろにいたため、
3人の顔も見えず、当然会話にも参加していなかった。

そんな状況でも、3人は、ドイツ人ではない自分が
部屋の会話の聞こえる距離に入ったため、自分たちしか
理解できない言語で話すのをやめ、会話を英語に切り
替えるのである。

そして、ルームメイトも含め3人とも、発音などから英語を
お互いに話す事が楽である人たちでもない。

あまり大した事には聞こえないかもしれないが、逆の
立場で考えてみてほしい。

自分の気心知れる日本人友達と、自分の家で日本語で
会話をしているとする。そして、ドイツ人のルームメイト
が夜家に帰ってくる。そして、10メートル離れた顔の
見えないキッチンにルームメイトが入ったことに気づいた
とき、そのルームメイトが日本語がわからないという
理由により、3人の日本人は自分たちの会話を英語に切り
替えるであろうか?繰り返しになるが、その3人の会話には
ルームメイトはまだ参加していないので、会話をしているのは
3人の日本人だけである。

自分の場合、これは間違いなく、この時点でルームメイトに気を
使って英語で3人で話すという事は無い。

仮に会社などで、日本人が数人いる中、外国人が会話に参加し
てきた場合は日本語の分からない人に対して失礼でない様に、
会話を英語に切り替えるよう努めている。

しかし、先日の出来事が特に印象に残ったのは、自分が会話に
参加しておらず、距離もかなりあったにもかかわらず、会話を
英語に切り替えたルームメイト達のSocial Skillに感心した
からである。

いろいろな国のひとが混ざっている環境で生活していると、
様々な考え方を学べて面白い。その日、この母国語と
英語の切り替えに関して、もうちょっと意識を変えなくてはな、
と感じた。

2009年2月16日月曜日

国際環境の会議でなぜ発言できないか 〜現状分析

「国際環境での会議はどんな感じか 〜状況説明」に戻る

前の「国際環境での会議はどんな感じか 〜状況説明」で
書いた様に、仮に英語のしゃべれる人でも、外国における
外国人の多くまざる会議で、なかなか発言ができないという
のは、経験の有る方も多いかもしれない。

これは、日本における会議の発言形態と、外国のカルチャー下
での発言形態に大きな違いがあるからであると思う。

日本人同士の会議や談義においては、以下のような基本ルール、
もしくはその中のいくつかが、暗黙の了解であると思う。

* 人の発言を尊重する
* 次の発言は、前の人の発言が終わってからする
* 誰かの発言が終わったら、自分が次に発言してよさ
  そうか伺う
* 誰かと同時に発言をしてしまったら、「どうぞどうぞ」と
  相手に勧める
* 会議の種類によっては挙手をし、許可が出るのをまって
  から発言する
* 議題に精通する人がそのミーティングに参加している場合、
  その人の知識、経験は尊重され、発言権等に敬意を払う

つまり、我々のカルチャーにおいては、複数のひとが何か
議論をする時は、自分の前の発言者が言い終わるのを確認した
うえで、次の人が発言をする、というのが前提である。
われわれは無意識でそれを行ない、習慣になっている。
そして、それを守らないと、少々「自分勝手」、「礼儀の
なっていない」ひと、ととられてしまうかもしれない。

また、そのミーティングでベストの結論、方法を導く為に、
専門知識や議題に関して経験のある人が参加している場合は、
その人の意見や貢献を皆が期待し、尊重する。

では海外における外国人の発言形態はどうか?

もちろんミーティングにもよるが、上のようなルールが
結構適用されていないことがある。そして、日本の習慣で
こっちの会議に臨むと、発言のタイミングがつかめないと
いうことがおこる。

また、みな個人主義で、ここは自己主張の強い社会のため、
ミーティングにおいては自分の意見を積極的に発言していく。

これ自体は悪い事ではないのだが、ときには仮にミーティング
の議題に精通する人が他に居ようが、その議題について自分の
意見、知識(極端なケースは仮にその知識が間違っていてもかま
わず)、そして自分のミーティングにおける存在および貢献度を
アピールしようとするのである。結果それがしゃべるべく適任の
人の時間をとることになっても。。。

つまり、ベストなミーティングを行なう為に誰が意見するのに
適任であるかといった配慮よりは、いかに「自分」がミーティング
で一番発言、および貢献できるかという点の方に重点を置く人が
結構いるのである。これは自分の思うに、自己主張の強い社会の
マイナスな面の一つであると思う。

さらには、思うに、日本人がつまづく大きな理由としては、
こっちの会議では、誰かの発言の次に自分が発言をする
タイミングが、少々日本とは違うところであると思う。特に
熱の入ったミーティングにおいては、その前の人の発言が
完全に終わるほんの少し前に、次の自分の発言を始めると
いうところである。

つまり、現在発言している人が何かを言い終わって、
それを確認してから自分が何かを発言しようとすると、
そのタイミングでは自分の発言の機会があまり回って
こないのである。。。

もちろんペースの遅いミーティングや、たまたま誰も
次に発言しようとしなかった時は、このタイミングでも
発言の機会はくる。しかし、大事なミーティングや、
自己主張の強いリーダー達が集まるミーティングなどでは、
通常みんなの発言が盛んなため、このタイミングが来る事
は滅多に無い。

しかし、みんな人の発言を尊重せず好き勝手話し
ているわけでもない。日本とはちょっと違った基準の
ルールがある。なので、じゃあ俺も周りを気にせずがんがん
発言していけば良いのでは?というほど単純でもない。

つまり、大事なミーティングできちんと参加者として責任を
持ち、発言をしていくためには、こっちのミーティングの
発言形態に慣れるしかない。我々の感覚でこっちのミーティ
ングに臨むと、仮に自分がその会議の判断にとって大事な
経験や知識を持っていても、なかなかそれが考慮されない
という事が起こる。英会話がぺらぺらでも、この問題には
全く関係ない。

一つ前の読み物でも書いたが、正直「自分の意見が求め
られないのなら別にいいか」と思いたい時もある。しかし、
チームを指揮しだすと、自分がその会議で有意義な発言をし、
計画を正しい方向に持っていくことはむしろ自分の責任でも
ある。話題に参加できなかったではすまされないのである。

もちろんもっと参加者の経験等を考慮したミーティングも
あるが、責任の有る以上はミーティングの形式の善し悪しに
左右されず発言できなくてはならないし、自分の経験上、
上のようなミーティングスタイルの方が数が多い。

こっちのミーティングできちんと発言していくには、
どうすれば良いか? 次は、もっと具体的に、自分の
とった対応策を紹介したい。


「熱の入った外国の会議で発言していくには 〜前編」に進む

2009年2月11日水曜日

日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 2

「日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 1」に戻る

Part.1で述べた様に、日本とアメリカでは仕事に対する姿勢が
ずいぶんと異なる。そして、ここで考えなくてはいけないのは、
アメリカで仕事をしている我々が、その姿勢の違いを意識しない
と損をする事があるということである。

仕事の上で、理想論を語ると、熱心に仕事をし、それによって
スキルが上がり、成果が上がる事により仕事仲間の敬意が
上がり、自分のやった仕事に対し給料や、与えられるタスク、
ポジションなどもあがる。そして、自分の気にしなくてはいけ
ない事は、熱心に仕事をし、仕事の腕を上げる部分だけで、
残りのステップは自然とついてくる、といったものである。

しかし、現実はそうではない... これは世界中どこへいって
も同じかもしれないが、とくに個人個人の自己主張の強い
自分のいる仕事環境では、彼らの仕事スタイルを把握してい
ないと、理想論で仕事をしているとより損をする事になる。

自分はアメリカで仕事をはじめてから、ずいぶんと長い間この
理想論で仕事をしてきた。とにかく仕事を一生懸命し、実力さえ
上がれば、成果など自然とついてくる、と思っていた。そんな
ことを気にする暇があったら仕事を一生懸命やろうと。

われわれ日本人の感覚からするとこうである。仕事で与えられる
タスク、自分の参加したいプロジェクトと、基本は与えられた物を
やる。もしより自分がやりたいタスクや、プロジェクトに参加
したい場合は、それに見合う仕事のスキルを身につけ、それに
よって自然とそのタスク、プロジェクトを与えられるのを期待する。
結局、「与えられたものをこなす」というのが基本姿勢で、自分から
なにかを要求するとうことは「横柄」であるという感覚があるの
である。

給料や、昇進といったものにも同じ考え方が適用される。より高い
給料や、昇進を求めるのであれば、自分が頑張って仕事をし、成果は
向こうから与えられるものであり、「給料を上げてほしい」「昇進して
ほしい」などと言うこともまた、「横柄」である。

ここで、我々がアメリカで仕事をする上で知っておかなくては
いけないことは、周りの外国人はこのルールに従っていないという
ことである。

こういったカルチャー的な考え方が共通している日本で仕事を
している場合はよいが、ここでは周りがみな違う仕事の姿勢で
いるため、少し考えなくてはいけないのである。

もちろん、仕事に一生懸命にならず、スキルをあげるより横柄な
自己主張をしていかなくてはならない、と言っているのではない。

外国人は、行きたいプロジェクト、行ないたいタスク、欲しい給料
を結構頻繁に主張している。もちろん、これはマネジャーとの
ドアの閉じた部屋での会話のため、普通に仕事をしているとあまり
こういった話を聞く機会はない。

こんな例を考えてみてほしい。

家族を持っている人を想定してみる。
例えばあるプロジェクトが終わったとする。そしてそのプロジェクト
はキツく、ここ1ヶ月ほど、土日も出勤していたとする。すると家族
とあまり時間が過ごせていなく、本人としては次のプロジェクトは
すこし初めが楽なプロジェクトに入り、より家族と時間を過ごせる様
にしたいとする。

このとき、同時期に走っているキツい仕事がもう一つあるとする。
その仕事はこれからあと2ヶ月間、土日出勤であるとする。

ここで外国人がとる行動は、間違いなくこうである。まずマネジャー
の部屋にいき、

「ここ一ヶ月も、自分は会社の為に土日働き、家族とほとんど
時間を過ごせていない。だから、次のキツい仕事には入りたく
ない。家族と時間を過ごせる仕事にいれてほしい。もしどうして
も次のプロジェクトが自分を必要としているのであれば、特別扱い
で土日出勤はなしの条件にしてほしい。」

と。

この言い方は、個人として当然の主張であり、言われてみれば
「横柄」でも何でもない。そして、自分の会社であれば、これを
言われて「ダメだ」というマネージャーは絶対にいない。

しかし問題は、我々の感覚では、こういった事を言っても良い
という事を知らないということである。そして、周りのみんなが言って
いるということも知らない場合が多い。

さらには、自己主張をすることが前提のこのカルチャーでは、
主張をしない人は自動的に「必要としていない」ととられてしまう。

マネジャーが、会社にいる全ての異国のカルチャーを把握して
いるわけはなく、日本人に「おまえは家族の主張をしていない
けど、これはカルチャー的な違いで、本当は家族の為に次のキツ
い仕事に入りたくないんじゃないか?」とは当然言ってくれ
ない(笑)。

なので、当然マネジャーやプロジェクトは、自分を次のキツい
プロジェクトへ誘ってくる。仕事ができれば需要は高いため
なおさらである。次のプロジェクトの人事を管理している人から
すれば当然のリクエストで、自分のプロジェクトが締め切り
間際で、優秀な人は当然欲しいわけである。すると、現プロ
ジェクトが終了し、優秀な人材がフリーになれば、もちろん
次のプロジェクトにお誘いが来る。

ここで、やはり日本のカルチャーのある我々は、一つ返事で
また2ヶ月の土日出勤を承諾してしまう。前のプロジェクトでは
同じだけ辛い仕事を会社の為にしているはずなのに、周りの外国人
達は自己主張をし、次のプロジェクトではきちんと家族と時間を
過ごせる中、この環境に置ける外国人の仕事に対する姿勢を把握して
いないため、我々はまた「仕事だからしょうがない」と土日に家に
帰らない理由を家族に伝える結果になる。海外で仕事をする上で、
我々は日本人であるから、日本人の美徳で海外でも仕事をすれば良い、
だけでは良くない場合も時にはあるのが分かっていただけるのでは
ないだろうか。

つまり、ここで自分が言いたいのは、この自己主張が前提と
されるカルチャーでは、少なくとも最低限自分の得るべく権利は
主張しなくてはいけないという事である。それは周りがみな
主張しているため、それが普通で、それをしない人は自動的に
「欲しくない」ととられるからである。これを主張することは
もちろん横柄なんかではない。

次は給料や、昇進、といったもっと競争が激しく、また
より繊細なトピックの主張の仕方を考えてみたい。今回の
家族と時間を過ごす為の主張は、だれからみても妥当な主張
であるとおもう。しかし、ここにお金や認知、政治といった
ものが絡むと、話が数段ややこしくなる。

「仕事のスマートな主張の必要性」に進む

2009年2月9日月曜日

なぜアメリカではサービス残業をしてはいけないか? Part.1

先日、会社の若いアメリカ人と残業の話になった。
そしてこの話は、自分が10年前インターンで働い
ていた時に、その時の上司に自分が言われ、覚えた事
でもある。

一言で言うと、

「サービス残業はしてはいけない」

である。

この話は、結構基本的な事で、若い頃の仕事始めに
まず学ぶ事である。

この若くしてサービス残業をする彼の意図は決して悪い
ものではない。仕事始めでいろいろ習得したい、周りに
自分の仕事を認めてほしい、ただで長い時間働こうと
良い成果を挙げたい。すべて責任感のある尊敬できる良い
理由である。

この感覚は、我々日本人の仕事に対する姿勢に似ている
ところがある。ただし、違うのは、これをやるとまず
若いうちに、やってはいけないと上司に指摘されるので
ある。なぜか?

本人がやる気があって、ただ働きでもかまわない、という
のだから、仕事をして何がいけないのだろうか? プロジェ
クトや、会社が得をするのだから、本人が進んでするので
あれば良いのではないか? と思われるかもしれない。

つまり、これはこの残業を気にしない若い彼の為を思って
言っているのであろうか?

もちろんその意味もあるが、実はこのサービス残業をして
はいけない理由はもっと深い。

ここで一つ忘れてはいけないのが、ここの仕事環境は、
サービス残業が基本は無いという環境であるという事である。

大きな仕事で、大人数が関わるプロジェクトにおいて、その
プロジェクトの効率性をきちんと管理する為には、個々の仕事
のパフォーマンス、およびタスクの難易度を正確に把握すること
がとても大事である。そのため、自分の上司に、自分の仕事の
パフォーマンスを正確に伝えるのはその人の責任でもある。

たとえば、こんな例を考えてみよう。あるひとが、仕事の速度
が10段階中7であったとしよう。その人が、なにかの理由で自
分はスピードは10であると言うとする。

本来であれば、ここでスピードが10の人が必要なプロジェクト
であれば、新しくそのタスクの要求に合う人を募集、面接、と
いったことを行なわなくてはいけない。プロジェクトにあった
人事を行なう事は大切なことである。

しかしこの場合は、上記の人が10であるという事を前提に
プロジェクトは進み、新たな面接は行なわれず、彼に10の
スピードを期待され、タスクが与えられる。

そして、時間がたち、締め切りが近づき、どうも仕事が上がって
こない。そして、プロジェクトの責任者が彼のスピードは実は10
ではなく、7であるという結論に達した時は、締め切りが間際で
この時点で新たな面接などを行なう余裕が無いことが多い。すると、
そのため誰か10のスピードの人が他のプロジェクトから緊急に、
めちゃくちゃなスケジュールでかり出され、なんとかその仕事が
あがる。この助っ人のひとと、他のプロジェクトまで影響が
およんでしまうのである。

この例において、もちろん、その10と言ってはいるものの、
実際は7であることを見抜くのも、上司の仕事である。
しかし、自分のスピードを7ではなく、10と伝えていた人
にも責任はある。

さて、ことサービス残業においては、記録の外で行なわれるため、
どれだけその人が見えない所で仕事を上げているかがモニターし
づらい。さらには、このサービス残業が行なわれない事が前提とさ
れている仕事環境では、基本はだれも記録されていない残業は行なわ
れていないと仮定され、だれも疑わない。

つまり、記録外で行なわれている労働時間は、上の仕事の速度の
例の様に、この環境においては自分のパフォーマンスを正確に
プロジェクトに伝えていない事と同意にとられるのである。

そして、記録外の労働時間により、自分のパフォーマンスを
間違って伝えてしまうと、もっと問題は深くなる。それは、その
タスクを上げるのにかかっている時間は、実際にかかっている
時間よりも短く記録されているため、そのタスクの難易度を
プロジェクトが把握しようとすると、難易度を低く見積もって
しまうのである。

その結果、もしこの類のタスクが他の人に与えられた場合、実際の
むずかしさより簡単であると見積もっているので、そのひと、および
そのタスクを見積もった人にも迷惑がかかってしまう。これらは全て、
自分のパフォーマンスを間違って伝えているという事に起因する。
自分のちょっとしたサービス残業が、プロジェクトに対してこのよう
にいろいろと影響を及ぼすのである。

もちろん、長い時間をかけてでも良い仕事を上げたいという
考えは、だれでも通る道である。しかし、プロジェクト管理
のためだけではなく、たとえばプロジェクトの後半、本当に残業
(これは実際に給料が払われる、記録上の残業)が必要な時は
本人も大変になる。記録にのこる残業が必要なキツい時に、
その上にサービス残業をしなくては自分のタスクが上がらなくなる
からである。長時間の上にサービス残業を重ね、結果疲労なども
重なり、効率も通常より下がってしまうことさえもある。
これは本人にも、プロジェクトにもよくない。

こういった理由により、自分の為にも、プロジェクトのためにも、
仕事のパフォーマンスは正確に伝える必要がある。そして記録上の
労働時間しか行なわれていないことが前提のこの環境においては、
サービス残業も自分のパフォーマンスを間違ってプロジェクトに
伝える物として、ここではやってはいけないと注意されるのである。

さて、ここまでは自分の働く環境で、一般的に言われていることで
ある。

次のPart.2では、それを少しアレンジした、自分なりの見方を
考えてみたい。

2009年2月8日日曜日

A君の贈ったクリスマスプレゼント

こんな話を聞いた事があるだろうか?

これは自分の親友のA君の話である。
A君はヨーロッパ出身、そしてA君の彼女はアメリカ人である。

数年前のクリスマス時期、A君は家族の行事でヨーロッパの実家に
帰らなくてはいけなかった。そして彼女はアメリカで仕事があった
ため、仕事を終えてから新年にA君とヨーロッパで合流することに
なっていた。

A君の彼女は、それによってその年のクリスマス時期は、アメリカで
一人で過ごす事になる。A君も、A君の彼女も、自分の親友の為、
A君が不在の間、自分はA君の彼女の話し相手になる約束になっていた。

ある日自分がA君の彼女の話し相手になるため訪れた時である。
すごいA君の"Gentleman"を目にする事になる。

その日、A君の家を訪れたとき、まず初めに目についたのが、
A君の家のテーブルにあった物である。

そこには、十数個のクリスマスプレゼントが置いてあるのである。
そこでA君の彼女に、なんでこんなにプレゼントが置いてある
のかと聞いてみる。

すると彼女はこう答える。

自分が見落としていたのは、この十数個のプレゼント全てに
黒マジックで日付が記載されていたことである。

つまり、このプレゼントは、12月17日から彼女がヨーロッパに
A君を訪れる12/30日までの分、遠いアメリカに一人残る彼女に
毎日サプライズがあるようにと、一日一個、きちんと日付が
付けられた、日めくり的クリスマスプレゼントであったのである。

それを聞いた瞬間、このA君はすごいなあと思った覚えがある。

その日は確か12月21日であった。そして、12/17のプレゼントは
A君と彼女が見に行って、彼女が気に入った映画のDVDが出て来た
という。

12/18は彼女の大好きな女性誌の最新号が出て来たらしい。
12/19におしゃれな包みに入っていた物は彼女の好物の
チョコレートやキャンディー、12/20の分は彼女の欲しがっていた
アーティストの最新アルバム、そして自分が訪れたその日は
彼女の大好きな"Sex and the City"DVDセットであった。

そしてA君の彼女は、明日はなにが出てくるか楽しみだ(^_^)と
すごくうれしそうに語っていたの覚えている。その時の彼女の
表情は今でも忘れない。

こんな話はいままで一度も聞いた事が無かった。

自分が家族の事情でクリスマス時期に彼女をは離れなくて
はいけない時に、毎日彼女が楽しめる様に、一人で寂しくない
様に、そして、その一日ごとにでてくるプレゼントの選択の仕方、
心遣いに、あやうく自分もA君に惚れるところであった(笑)。

有る意味、浮気、不倫が少々黙認されている日本社会、
自分の大切な人をすごくケアする欧米社会、これに関しては
欧米「かぶれ」に少しなっても良いような気がしてくるのは
自分だけだろうか?


「B君の些細な行動」に進む
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2009年2月6日金曜日

すれ違いざまの挨拶、発展編 Part.1

「How's it going? How are you? What's upにいちいちまじめに答えない。」に戻る


前の記事で紹介した、

* How are you? (元気?)
* How's it going? (どう?)
* What's up? (どうした?どうしてる?)

の基本対応ができる様になったら、もうちょっと表現力を上
げたい人のために、もうすこしかっこいい、応用的な対応をする
ためのこつを紹介する。

前回紹介した、一言返事の対応方法は間違ってもいないし、
失礼でもない。外国人もしょっちゅう使う。

しかし、よりカジュアルトークを上達させたい場合、
もしくはSocial skill(社交性)を上げたい場合は、
もう一歩ふみこんだ対応の仕方を知っておくと、より
表現力が上がる。

基本は一緒である。
ただし、その場の環境によって、対応を状況に合わせ、
柔軟に変化させるのである。つまり、挨拶代わりの
「ミニ会話」をそこで即席で行なうのである。そう言わ
れるとなんだか難しいことの様に聞こえるかもしれないが、
こつさえ分かれば結構簡単である。

ただし、ここで誤解を招きやすい事がある。相手の挨拶
質問に対して、きちんと対応した返答するからと言って、
前回言った、「これらの表現は、相手の状況を心底知りたい
から聞いているわけではない。だから、ただの挨拶で返せば良い」
といった基本対応の理念は変わらない。要は、「ただの挨拶」
が、「おしゃれな挨拶」に変わるだけである。このミニ会話
に感情を込める必要はまったくない。あくまでも、より凝った
バージョンの「挨拶」なのである。

相手: "Hey what's up?" (よう!どうだい?)

自分: "ummm, not much. How about you?" (特になにも、そっちは?)

相手: "Same old same old" (いつも通りだよ)

自分: "oh yea...?" (そっか)

ここでまず考えてほしいのは、上の表現の一字一句
ではない。ここで紹介している表現自体はまだあまり
重要ではない。なぜなら、これを初めてやろうとすると、
相手からの返事が返ってこないといった事がおき、
会話がうまく成立しないからである。この経験をした事
がある人はいるのではないだろうか。そして、それは
使う文章の問題ではない。

どういうことか。

まず初めに、この挨拶を交わすときの状況を想像して
ほしい。

こういった挨拶は、友達とすれ違い様にするのが
普通である。つまり、二人が通常のペースで歩いて
いるとすると、相手が一言目の"Hey what's up?"
と言ってから、すれ違い、そして二人が背中を向け合い、
会話がとどかなくなるまではほんの数秒の出来事である。

なので、これを初めて試してみると、通常はこういう
ことが起こる。

--- 二人の距離お互い向って1メートルぐらい ---
相手: "Hey what's up?"(よう!どうだい?)
 
--- 二人がちょうどすれ違う ---
自分: "ummm, not much." (特になにも。)

--- 二人の距離お互い背を向け離れながら1メートルぐらい ---
自分: "How about you?"(そっちは?)
                
--- この時点で二人で背を向け、2メートルくらいはなれている ---
相手: "..." (自分の質問が聞こえないか、返事をするのには不自然な距離)

--- 会話は届かない ---
自分: "..." 

つまり、自分が「特になにも」と返答したあとの、
自分の「そっちは?」という質問をしている時点で、
相手が後ろ向きで遠すぎるため、相手が聞こえず返事
をしないか、不自然に振り向き自分の「そっちは?」
に対して無理矢理返答をするかのどっちかになる。

これでは「挨拶」がスムーズにいかず、軽い挨拶の
はずが、毎回ぎこちなく、不自然になる。これでは
やはりまずいであろう。これはまさに、自分が挨拶に
アドリブを入れようと思った当初、陥った状況である。

ここで、秘密を紹介する。ミニ会話の表現よりも何よりも
大事な「こつ」は、


自分: "ummm, not much..., How about you?"

という表現を、

自分: "ummm, not muchhow about you?"

という表現に変えることである。

つまり、通常の会話の時のように、この二つの
短い表現を、間に一息入れて表現するのではなく、
すれ違い様の挨拶の時は、二つの表現をくっつけて、
ほぼ一つの表現の様につなげて言うのである。
(文章なので、あえてニュアンスが伝わる様に、
"much"と"how"がつながるという意味で、"muchhow"
という表記にしてみた。)

些細な表現の違いであるが、これがコミュニケーション
英語とカルチャー英語の違いである。

コミュニケーション英語では、ぎこちないアドリブ入り
の挨拶になる所であるが、これをカルチャー英語版
にするとこうなる。

--- 二人の距離お互い向って1メートルぐらい ---
相手: "Hey what's up?"(よう!どうだい?)
 
--- 二人がちょうどすれ違う ---
自分: "ummm, not muchhow about you?"(特になにもそっちは?)

--- 二人の距離お互い背を向け離れながら1メートルぐらい ---
相手: "Same old same old" (いつも通りだよ)
                
--- この時点で二人で背を向け、2メートルくらいはなれている ---
自分: "oh yea...?" (そっか)


違いが分かっていただけただろうか?

自分の一つ目の返答が、答えと質問に融合されたため、
次に相手が自分の問いかけに対し、自然に答えを出せる
タイミングにまだいるわけである。そして、自分の
「ふーん」的な最後の返答は、背中を向け合って距離が
ちょっとあっても、一言返事というか、ただの音なので、
それも不自然ではない。これによってスムーズに「おしゃれな
挨拶」がうまくいく。

つまりまとめるとこういう流れのステップである。

「相手が何か軽い挨拶」

「それに対する返答&問いかけをつなげ、一つの表現にする」
↓  
「その問いかけ部分に対する相手の返答」

「自分の(ふ〜ん)的などうでも良い反応」

この大事なこつさえつかめれば、あとは表現の
バリエーションをいろいろためし、アドリブを
入れられる様にためすだけである。

ながくなったが、この「おしゃれな挨拶」が
できる様になると、カジュアルトークがもっと
楽しくなる。

Part.2は参考までにいくつかアドリブ例を紹介する。

「すれ違いざまの挨拶、発展編 Part.2」へ

2009年2月2日月曜日

「帰国子女」=「英会話に不自由が無い」ではない?

「カルチャー英語は、通常の生活からは学べない?」に戻る

おそらく最近では結構周りに「帰国子女」と呼ばれる人が
一人や二人はいるであろう。外国で幼い頃生活していた人
たちで、英語(正確には外国語)が「ぺらぺら」話せる人
たちである。

帰国子女とひとくくりに言ってもいろいろなパターンがあ
ると思う。外国で生活していた時期、期間、そして環境に
よって様々である。

一般的には「帰国子女」=「英会話、もしくは英語を用いた
コミュニケーションに不自由が無い」という定義で誰も文句
は言わないであろう。しかし、このカルチャー英語の存在を
考えるために、あえてそこを疑問視してみる。

「カルチャー英語とは?」
「カルチャー英語は、通常の生活からは学べない?」

を読んでいただくと分かって頂けると思うが、自分は英語を
生活の中のから、2つの大きなカテゴリーに分けてとらえ
ている。すなわち、コミュニーケーション英語とカルチャー
英語の2つである。

そして、この帰国子女とくくられる人々が不自由ではない
のは、このコミュニケーション英語の部分であると思う。そして、
その人のカルチャー英語のスキルは、外国で生活していた時期、
期間、そして環境によって様々であると思う。

日本語に当てはめてみると分かりやすい。われわれ日本人は、
みな日本語がしゃべれる。しかし、同じ日本語でも、幼稚園児
であれば会話のスキルや表現力は幼いであろうし、小学生では
大人の感情の入る会話には、通常は参加できないはずである。
また、中学生では社会人が飲み屋で話す様な内容にはついてい
けないはずであるし、全ての大人が、日本語がしゃべれると
いうことにより、たとえば会社の経営者と同じ表現力がある
というわけでは無いであろう。

そして、こういった表現力、人生経験、カルチャーの経験に
大きく差の有る二人が、なにか会話の目的があるわけではなく、
会話の目的がお互いの存在を楽しむことであったとしたら、
何もテーマのない雑談をしたときに、話題がいまいちあわない
としたら、理由が納得できるのではないだろうか。

それでも、表現のうまい下手を考慮せず、日常会話で自分の
伝えたい事が伝えられ、相手の表現が理解できるかということ
であれば、今挙げた年代が皆おのおのの表現の仕方でできる
はずである。また、日本語の発音は、みな完璧である。

この、意思疎通ができれば良しとする言語が、自分の言う
コミュニケーション英語にあてはまり、年齢、人生経験に
より変化していくより実社会向けの言語が、カルチャー英語
に相当する。

英語に関して、一般的に意外と勘違いしがちなのが、発音が
でき、意思伝達に不自由が無なければ、英語を用いた外国人と
のコミュニケーションには何一つ不自由がないとくくってしまう
ことである。

それゆえ、「帰国子女」=「英会話に何一つ苦労がない」という
見方になる。

しかし、日本語に表現力がカルチャーや人生経験により差が
ある様に、英語にももちろんその差は存在する。

帰国子女であれ、たとえばその人が外国で過ごしたのが幼稚園、
小学校といった幼少期であれば、仮に英語の発音はよくて、
意思伝達にはまったく不自由がなくても、バーにおける大人の
笑い話にはついていけないということが起こる。

ここに、発音や意思伝達といった機械的な会話能力とは別に、
人生やカルチャーの経験によってスキルアップする、英会話の
スキルが存在する事を感じていただけるであろうか?

カルチャー英語の存在を少しでも感じていただけたら、つぎは
なぜ、そして、いかにこのカルチャー英語が国際環境での生活を
より充実させるうえで、大事であるかを考えたい。

2009年2月1日日曜日

カルチャー英語は、通常の生活からは学べない?

「カルチャー英語とは?」に戻る

まずはカルチャー英語の存在を理解するために、
お互いの定義の一つからはじめてみる。

*「コミュニケーション英語」: なにか話し合わ
なくてはいけない事柄があり、それを達成する為の
会話に使う英語。

例えばレストランでは食事、注文、といった目的が
あり、銀行では預金や引き出しなど、銀行の作業と
いった題材がある。仮に弁護士と難易度の高い会話を
しているとしても、それもその弁護士を雇った理由があり、
会話にはテーマがある。学校、仕事場では、当然
学んでいる事柄、もしくはやっている仕事に関係の
ある会話をする。

こういった場での会話は、伝えたい事が伝えられ、
相手の言っている事が分かりさえすればコミュニケー
ションに問題はない。

そして、日常生活をし、学校で授業を理解し、仕事を
こなす為の英語は、こういった日常生活に身を置いて
いれば、時間さえ経てば、経験によりだんだん覚えて
いく。もし習得を早めたいのであれば、語学学校へ
いけば学ぶ事もできる。

これらがすべて、コミュニケーション英語である。

*「カルチャー英語」: 相手の存在を楽しむ為の会話に
使う英語。

では逆に、カルチャー英語はどういった場面で登場するか。

代表的なのは、知人のパーティーに呼ばれ、雑談やフリー
トークをしているとき。美容室で髪をきってもらっている
時のスタイリストとの雑談、またはバーやクラブで友達と
何でもない会話をしているとき。そして見落としがちなのが、
目的地に向っているときの移動中の会話や、映画の始まるま
での十数分の暇つぶしの為の会話などである。

実際に自分がこのカルチャー英語の存在に気づいたのは、
この移動中においてであった。日常生活の上での英会話
(コミュニケーション英語)に苦労がなくなっていた頃、
ある知人のパーティーから10人ほどでバーへ向って
徒歩で移動している時であった。

知人の家からそのバーまでは10分ほどで、その間、
みんながわいわい何かとどうでもよい雑談をしながら、
その移動時間を楽しんでいるなか、自分はその会話に
参加できず、退屈な思いをしたのを良く覚えている。

そのときに、英会話ができると思っていた自分は、
会話についていけないことに非常にショックだった。

このような外国人との移動中に、会話に参加ができな
い経験をしたことがあるのは自分だけではないであろう。
また、外国で、映画上映までの待ち時間や、外国人の集まる
パーティーが楽しめない、バーでのカジュアルトークが
面白くないと感じる事がある日本人は多いであろう。

こういった場で会話をするのは、なにかテーマや決定事項
があるわけではなく、お互いの存在を楽しむ為にするの
である。そして、この種の英会話ができないと、日本人と
日本語で接している時の様なクオリティーで、外国人との付
き合いを本当に楽しむ事はできない。

何らかの理由で外国を自分の生活の場と決めた以上は、
そこで増える外国人との付き合いを、より楽しむ事が
できるほうが良いと自分は考える。

そして、どんなに仕事で英語ができようと、どんなに
英語の発音が良かろうと、弁護士とどんなに難しい
交渉ができようと、それらはすべてコミュニケーション
英語であるため、これらが苦なくできても、移動中に
その場にいる友達の存在を楽しめない、雑談ができない
といた状況は起きるのである。

つまり、日常生活や仕事場などの、みんなが話題のテーマを
もった事務的な英会話と、移動中や暇つぶし、バーでの共通
目的をもっていない、人の存在を楽しむ為の英会話とでは
内容が全く違う。

残念な事に、このコミュニケーション英語だけを使う通常の
環境で生活していたのでは、このカルチャー英語は何年経って
もあまり上達しないのである。

自分の海外での生活に、カルチャー英語が必要と判断した
場合は、通常われわれ日本人が接する生活では、コミュニ
ケーション英語のみしか行なわれないため、意識的に
カルチャー英語が使われる環境に身を置く必要がある。

カルチャー英語の更なる定義の為に、次は「帰国子女」
の定義を考えてみる。

「「帰国子女」=「英会話に不自由が無い」ではない?」へ進む

2009年1月30日金曜日

なぜ日本人は外国がニガテか? 〜問題提起

まず始めに、日本人は世界的に能力が高いと思う。
自分の分野でもそうである。日本のスタジオで実力のあった
アーティストの方々は、アメリカやヨーロッパのスタジオに
所属しても、やはり一流の実力がある。

当然文化の違いなどの難しさはこのブログにも書いている
ように沢山ある。また、文化の違いにより、実力が国際環境
では100%発揮されない場合も有る。このブログに書いてある
ように、それは文化の違う環境で働いている以上はそれを
無視するわけにはいかない。

しかし、こういった文化の違いとは別に、過去に自分にはどこ
か漠然とした「外国はレベルが高い」といったイメージがあった
事を告白しなくてはならない。渡米したころの自分は、外国に
対する未知なる偉大さの様なイメージを思い描いていた。

自分の場合、いろいろな経験を国際環境で積み、そのなかで
ようやく、日本も外国も能力には国境が無いということに気づいた。

さらには、海外で生活していると、日本という国、文化、そして
能力が、世界的にかなり高く評価されていることを身に感じる。
これはおそらく、我々日本人が思っている以上に、日本の評価は
外国で高い。

つい最近アメリカ人の夫婦と話をしたときに、日本の話に
なった時に、日本人に対するアメリカ人の一般的な見方は、
「能力に秀でた、一目おく人たち」であると言っていた。
こういった具体的な表現を聞いたのは初めてだったので、
「ほー」と思った。自分の現在の見方が第三者の意見により
確認された感じがした。

しかしそんな中、こんな光景を目にした事があるのは自分
だけではないはずである。

例えばどんな分野でもよい。その分野で日本で実力があり、国を
代表する人がいるとする。そしてそのひとが、同分野の外国の
代表者と接する機会があるとする。

現在の自分としての理想は、お互い、自国の一流同士として、
自分、および自国に自信を持ち、また、相手も他国の代表と
して、お互いを尊重した態度、コミュニケーションをとること
が理想であると思う。

しかし、このような光景を目にする事がたまにある。それは
つまり、

「おっと、外国の代表者だ、恐れ多くも大きい事は言えないよ。」

もちろん、外国に対して臆さないひとは沢山いる。自国の
プライドを持ち、外国がどうした?という日本人も自分の周り
にも沢山いる。

また、日本の美徳である、他人を敬う、謙遜の心、といった
ことをさしているのではない。これらは外国の人も学ぶべきで、
これは我々が誇るべくカルチャーであると思う。そうではなく、
ここで自分が感じるのは、どこか、外国人は自分よりレベルが
高いといったイメージの事である。

実際に実力、能力があり、外国の人もそう一目置いている。
当然、日本で実力の有る人は、世界的に実力がある。そういう
意識があれば、外国の代表者に引け目を感じる理由はどこにも
無いはずである。

もっと言うと、仮に、百歩譲って、ある分野においては日本
よりもある国の方が実力の平均値が高かったとしよう。
それでも、外国の情勢など関係なく、自国の環境に自信を
もって外国に対して堂々としている文化もある。

それではなぜ、自分も含め、こういった外国人の評価を勝手に
大きくする傾向があったのであろうか?

次は自分なりにその理由を考えてみたい。

2009年1月21日水曜日

アメリカンジョークに対する基本姿勢 Part. 2

「アメリカンジョークに対する基本姿勢 Part. 1」へ戻る

さて、Part. 1で話したように、アメリカンジョークは我々日本人
のように、慣れていない人にとっては見分けるのがすごくむずかしい。

なのでずいぶん前に、アメリカ人の友達に、どうやってお前らは
ジョークかどうか見分けるんだ?と聞いた事がある。その時の
友達の返答は、

「冗談である事を前提に話をする」
(もちろん、これは冗談を言って良い環境において)。

であった。

そんな事でコミュニケーションが成立するのか?と思われるかも
しれない。

ただし、もちろんそれではまじめな話が全くできなくなるので、
仮にそれが冗談で無かった場合に、冗談ととらえると何か
まずいことが起きるような内容であった場合、
"You're joking, right?"(冗談でしょ?)と冗談である
ことを確認するのである。
  
さらに、この冗談が前提という、アメリカンジョークの混ざる
会話に慣れすぎると、多くの事を冗談と仮定するのが普通に
なる為、疑いもせず冗談と決めつけることが起こる。すると、
冗談でないのに冗談であると決めつけてしまうことが起こり、
その際に、「なーんだ、冗談かと思ったのに本当だったのか」
という意味の"I thought you were joking"という
訂正の表現をよく使うのである。本当にややこしい。

つまり、考え方としてはこうだ。

「話している方は、相手が冗談と疑える事を前提で話してい
 る(つまり、逆に言うと、疑えない方がわるい。疑えない方が
 わるいという具体例は「移民局からの電話」へ)」
   ↓          
「だからジョークは、なるべく冗談であろうと疑っている
 相手を引っ掛けられる様に真顔で言う」
   ↓
「それゆえ、聞いている側は、冗談という前提で反応するか、
 すごくまじめに聞こえる内容は、冗談と仮定して実際に
 冗談でなかった場合にまずいので、"you're joking, right?"
(冗談でしょ?)という確認方法を使う(すごくまじめに聞こえる
 なら初めからまじめな意見として聞け!といいたくなるが、
 ここに冗談を前提とするというカルチャーが伺える。)」
   ↓
「そして、上の3つが普通のため、"I thought you were
joking"(冗談かと思ったよ)という、冗談であるという前提が
 間違っていた場合、その反応の訂正をする。

もうひとつ例を挙げる。

A: "blah blah"(相手が何か言ったとする)
B: "haha, you're funny"((冗談と仮定した反応)はは、
  面白い奴だな、冗談なんていって。)             
A: "no I'm dead serious!"(冗談じゃないよ!超まじめに
  いってんだよ!)
B: "oh..."(なんだ、マジなのか。。。)

これも良く日常で聞く会話の流れである。これは「A」が何かを
まじめに言っているのに「B」が冗談と仮定し、信じない場合である。
「A」は再度、「いんや、まじめに言ってるんだけど。。。」と
信じない「A」を説得しなくてはいけない。ここにも、多くを冗談と
仮定する会話の流れが見られる。

これらの例から、アメリカでのカジュアルトークには、多くの部分
を冗談と仮定してコミュニケーションを進めるカルチャーがあること
が分かると思う。

まじめに言っているのに、冗談としてとられる会話、そして、真実
っぽく聞こえる場合には、逆に「冗談だろ?」とわざわざ確認しな
くてはいけないのが、ここのカジュアルトークの枠組みである。

日本語の場合は、会話においてまず前提として、言っている事は
基本は冗談と仮定するなどということはしない。

では、この基本対応を考慮して、Part. 1の「他人」との会話の、
対応を考えてみよう。

元は:

他人:「あれ、お前のボールが1つか2つ足りなくないか?」
自分:「え?そんなことないよ」
他人:「俺がいない間にズルしたんじゃない?」
自分:「数え間違えじゃない?」
他人:「ははは、落ち着けよ、おまえ、冗談だよ」

アメリカ的な対応は:

他人:「おい、おまえのボール1つか2つ少なくないか?」
自分:「(疑わしいので、冗談と仮定して)、はは、面白い
    奴だな、おまえ」
他人:「ははは」(実際に冗談であった)


で会話は終了である。「他人」からすれば、ジョークをかまし、
それに相手が対応した、どこでもあるカジュアルトークである。

もう少しカジュアルトークを進める、手強い相手の場合は、

他人:「おい、おまえのボール1つか2つ少なくないか?」
自分:「(疑わしいので、冗談と仮定して)、はは、面白い
    奴だな、おまえ」
他人:「冗談じゃないよ、本当にずるかなんかしてないか?」
   (まだジョークを続ける)
自分:「はは、へたくそなお前が俺の為に間違えて沈めてくれ
    たんじゃないの?(等)」<--- br="">他人:「ははは」

こんな感じで、外国人はどうでもよい冗談を言い合い、お互いの
存在を楽しむのである。

いくつか上で述べた、他のパターンはこんな感じである。

他人:「おい、おまえのボール1つか2つ少なくないか?」
自分:「(疑わしいので、冗談と仮定して)、はは、面白い
    奴だな、おまえ」
他人:「いや、まじだよ」(冗談ではなかった場合)
自分:「ああ、なんだ、冗談かと思ったよ。じゃあ、それは
    お前の勘違いだよ。」
他人:「あ、そっか、ならおっけー。」


他人:「おい、おまえのボール1つか2つ少なくないか?」
自分:「(冗談だと思うが、相手がマジで気にしてると相手に
    悪いから)冗談だろ?」
他人:「いや、まじだよ」(冗談ではなかった場合)
自分:「ああ、なんだ、じゃあ、それはお前の勘違いだよ。」
他人:「あ、そっか、ならおっけー。」

こういうカルチャーにおいて、カジュアルトークに参加する場合、
「基本は冗談である」、という習慣のない日本のカルチャーで対応
すると、コミュニケーションに少々ギャップができるのは想像して
頂けるのではないだろうか?

2009年1月19日月曜日

ナポレオン・コンプレックス

先日は今年のアカデミー賞視覚効果部門のベークオフだった。
(ベークオフとは、その年の現在ノミネーション候補に
上がっている7作品の中から、ノミネーション3作品を決める
アカデミーの正式な選考会)。

さて、ベークオフの話がしたいのではなく、その会場で友達に
聞いた、こっちのカルチャーを表す面白い英語表現についてで
ある。ベークオフとは、ノミネーション候補の7作品に名前が
挙がっている代表者が、アカデミー会員にその作品の視覚効果
がいかに優れているかというプレゼンテーションをする会で
ある。つまり、そのステージに上がっている人たちは、
各映画の視覚効果全体を総括している大リーダー達である。

そのなかの一人がステージにあがり、堂々とプレゼンテーション
をしているなか、友達の一人が、彼についてぽろりとこんな表現
をした。

友達:「彼って堂々としてるけど、ナポレオン・コンプレックス
    持ってるんだよね。」
自分:「ナポレオン・コンプレックスって?」
友達:「ああ、背が低くて、その分自分を証明しようと肩に力を
    入れている人の事」
自分:「ふ〜ん」

そのステージ上の彼は、自分からみて少なくとも175センチはあった
ように見えた。日本人の感覚からすれば、あのような大舞台で、その
身長で、自分の業界のトップの大リーダーが堂々とスピーチしているの
に対し、「彼は背が小さいから〜」といった冗談を言う事はあまり
ないであろう。

さらには、つい最近、こんな会話を友達とした事がある。

ミーティングにおいて、言葉を発せず、みんなただ座っている
だけでも、その中のリーダは通常すぐに分かるというのである。
それは大抵その部屋の中で、身長が高く、ガタイが大きく、髪の毛が
短く(まじ)、ミーティングの中心位置に座って、堂々としている
ひとであるというのだ。あくまでこれも、この友人の個人的な意見で
あるが、いままで外国で仕事をしてきた中、自分の経験からもその
ときの反応は「うんうん」と同意であった。

もちろん例外は沢山あるが、割合的にはたしかに彼の言っていること
は一理あり、ステレオタイプ(同じ考えや態度や見方が、多くの人に
浸透している状態。wikipediaより)として言われるのはうなずける。

さらにもう一つ面白い例がある、自分の会社で、みんなが誰に
やれと指示されたわけでもないのに、同じタイミングでジムに
通いだすことがある。(というよりは、ジムに通う習慣のない
ひとが、突然ジムに通いだすことがある)。もう想像つくかも
しれないが、会社でリーダー的な仕事をやり始めると突然ジム
に通い始める人が多いのである(笑)。

なにが言いたいかというと、冗談ではなく、現在自分の生活
している環境では、「リーダー」=「背が高く、ガタイの大きい人」
というステレオタイプがある。そして、それに当てはまらないと、
ベイクオフのプレゼンの舞台に立つ人でさえ、ちょっとした
皮肉ったジョークを言われるのである。

もちろん、身長が低いから君はリーダにはできないなどと
いった話は聞いた事が無い(仮に、もしこんな事を実生活で
聞いた事が有る人は、ぜひご一報を。)

しかし、このブログの他の場所でも書いているが、自分の生活
する環境は、リーダーが束ねなくてはいけないのは、自己主張を
どんどんし、上司に肩書きがあろうと、それに見合ったカリスマ性、
威厳、実力がないとついていかないという人たちである。そんな
環境においては、風貌が、リーダーのステレオタイプにあてはまる、
物理的に「大きな」存在であることがプラスの要素である事は
あながち想像できないことではない。

さて、ベイクオフのステージの彼に話を戻す。自分の観点から
話をすると、この「ナポレオン・コンプレックス」を持つ彼は
すごいと思う。海外で仕事をしてきた自分にとって、前出の
外国人の持つ、リーダーに対するステレオタイプは自分にも
現時点であるはずである。そんな自分にとって、ステージ上の
「小さな」彼はまったく小さく見えなかった。初めに書いたが
かれは堂々とし、リーダーとしてのカリスマ性もあり、一言で
言うと「威厳」があった。ミーティングで彼が発言すればみん
なが耳を傾けるであろう。

彼の事を「ナポレオン・コンプレックス」と表現をした自分の
友人は、その大リーダーとしてのステレオタイプに当てはまら
ない彼が、振る舞い方、態度、発言によって、本当の「大きさ」
を体得していることに気づいていただろうか?

2009年1月15日木曜日

"Hi〜" vs. "Hi"(「〜さんこんにちは」と「こんにちは」の違い)

ある自分の知人を"Mike"(マイク)とする。彼は自分の
大親友ではなく、他人でもない。お互いにいつか自己紹介
したことがある、名前を知り合う程度の知人であるとする。

そして、彼とどこかですれ違い、軽い挨拶をする場合、
(一瞬すれ違うだけである。立ち止まって話すのでも、
立ち止まっている相手に会話をする為に歩み寄るのでも
ない場合。)

A.) "Hi!" (こんにちは!)
B.) "Hi Mike!" (こんにちはマイク!)

どちらをしているだろうか? 想像するに、
かなりの割合で(A)の方が多いのではないだろうか?

自分もずいぶんと長い間(A)をやってきた。(B)を
親友以外にまでできるようになったのはここ数年である。

この小さな違いに「大きな」違いがあるのに気づいた
のは、ある日友人と雑談をしていたときの、こんな会話
からであった。

友人: 「おい亮、会社の「A」ってやつ知ってるか?」
自分: 「いいや、知らないけどどうしたの?」
友人: 「いや、大した事じゃないんだけど、あいつ
     自分とあまり面識ないんだけど、すれ違うたびに
     俺の名前をちゃんと言って挨拶するんだよね。」
自分: 「へ〜」

言われてみると単純な事だが、たしかに"Hi"と"Hi〜"とでは
相手の名前が入っている分だけパーソナル(個人的、親密)な
感じがする。そして、それを言われた方は、些細な差ではあるが、
その分だけちょっと良い気がする。誰でも自分のことを少しでも
意識してくれていると感じる事は悪い気はしないのであろう。

そのとき思ったのである。自分は自分の名前を付けて"Hi"と呼ばれ
るのが普通だが、よく考えたら逆に自分は相手の名前を"Hi"のあとに
つけていないじゃないかと。意識してみるとすぐ分かるが、外国人は
比較的相手の名前までつけてちゃんと挨拶をする。

これは我々のカルチャーでは、ちょっとした軽い挨拶に、相手の名前を
入れるという習慣があまりないからであると想像される。

それゆえ、自然と"Hi"という表現に落ち着き、自分が名前を言われ
ている事を意識せず、そして結果その差にも気づかないのである。

そこでまた自分でやってみた。すると、面白いもので、一言相手の
名前を付け加えるだけにも関わらず、慣れていないため初めは
違和感があるのである。

慣れてしまえば名前を付けた挨拶は意識さえもしない普通の事
となるが、上の自分の友人との会話の例からも分かる様に、
相手の受ける印象は結構違うのである。

つまり、"Hi"の方が、"Hi〜"より他人向けで、"Hi〜"はより友人
向けの表現なのである。そして、自分の仲の良い友達などには、
"Hi"のみではちょっと距離感があり、やはり、友人は、友人
向けの表現で挨拶をした方が良いと思う。

そして、自分の友人が表現した様に、そこまで親しくない人まで
その表現ができるようになると、より「社交性」がある、「大人
である」といった印象になる。

自分の親友とすれ違った時、"Hi"のみで挨拶している場合は、
ちょっと考えてみると面白い。

2009年1月14日水曜日

国際環境での会議はどんな感じか 〜状況説明

自分のいままで働いて来た環境は、様々なカルチャーを
背景にもつ人々が集まる場所であることが多い。働いている人の
国籍は数えきれないほどであり、昼食にいくとそのテーブルの
大半が外国人(この場合はアメリカなのでアメリカ人以外)である
ことが普通である。「おお、今日はアメリカ人が二人もいる!」
といった冗談をよく耳にするのである。

このような環境で一つ会議を行なうと、参加者はこれまた様々な
国籍の人たちがいる事になる。このような会議に自分が初めて
参加した時は、かなりのカルチャーショックを受たのである。

その時の経験を正確に伝える為に、このような状況設定にしてみる。

仮にそのミーティングには10人の参加者がいるとする。国籍は
まったくばらばらである。この10人の中で、自分の得意分野は
「A」とし、残りの9人はそれぞれまた違った得意分野がある
とする。つまりこのミーティングの構成では、「A」の分野が得意
なのは自分のみである。そして、参加者全員は自分の分野が
「A」であることを知っているとする。

今日の議題は「A」、そしてそのときの自分の英会話は、日常会話に
はあまり苦労しない程度であったとする。

この設定で、30分のミーティングを終えたとき、なにがカルチャー
ショックであったかというと、ミーティングで一言も発言ができな
かったのである!

自分の得意分野の議題の会議で、自分以外は別の分野のひとである
にもかかわらず、なぜ一言も話せないのかとかなり落ち込んだ。
そしてその時期はとくに英会話に苦労していたわけでもない。

そのころの自分の感覚で言うと、あるミーティングの議題に精通して
いるひとがその場におり、それがそのメンバーに周知であれば、
通常は自分の意見が尊重されるというものであった。場合によっては
「〜さんの意見をどうぞ」「〜さんはどう思いますか?」といった
気遣いもあるかもしれない。

しかし実際はその正反対で、自分が一番精通しているはずの議題に
もかかわらず、一言も発言ができずに終わるのである。これは
かなりこたえた。そしてどうしてかが全く理解できなかった。

ここでまず始めに考えたのが、「これは自分が会議の経験が浅いから
であろう」であった。実際、今考えると、それももちろんマイナス要因
としてあったことは確かである。

しかし、こんなケースも考えてほしい。

今まで何度も、日本でグループのリーダーをしていた人が、
海外での会議に参加するとうまく発言ができない様子も自分は
目にしてきた。これはいろいろな国で自分が実際に参加した
会議で目にした光景である。また、通常こういった場所の
会議に参加している人たちは、英会話はきちんとできる
人たちであることを付け加えておく。

そのときにすごく自分には疑問であった。自分の得意分野の話題で、
会話能力もあり、母国ではそういった会議に慣れているはず
なのに、なぜうまく発言ができないのか?

また、これが大きな問題なのも明白であると思う。会議とは
その場に参加しているメンバーで意見を出し合い、ベストの
計画を立てるのが目的である。それなのに、その中で一番意見を
提供するべく自分が、一言も話さず、いろいろと決定されてし
まったわけである。「自分の意見が求められないのなら別に
いいか」と思いたい時も正直有る。

しかし、チームを指揮しだすと、自分がその会議で有意義な
意見をし、計画を正しい方向に持っていくことはむしろ自分の
リーダーとしての責任である。話題に参加できなかったでは
すまされないのである。

あれからずいぶんとミーティングをこなしてきた。
そしてその頃から比べればかなりましになってはきた
ものの、いまだミーティングで自分の最大限の貢献をする
ことは自分の中の大きな課題の一つである。

日々の試行錯誤の中、自分の経験からどうしてこういう
現象が起こるのか、なぜ我々日本人の感覚ではミーティングで
思う様に発言ができないのか。そして、どうすればより
発言できる様になるのか。

次は具体的にもっと話を掘り下げる。

「国際環境の会議でなぜ発言できないか 〜現状分析」にすすむ

Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 2

「Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 1」に戻る

まずはじめに意識しなくてはいけないのは、我々のカルチャー
は(特に他人と)目と目を合わせる事に基本的には違和感を覚える
ということである。つまりこれを直したいと考える場合、意識的に
その違和感を克服する必要がある。つまり、この違和感が普通である
ことをまず書いておきたい。

では実際に、日本人と外国人とではどのような行動の違いがあるの
であろうか。これをきちんと把握する事が第一歩であると思う。
だれか他人と学内、仕事場、アパート内ですれ違った場合、

日本人: 人がいる事に気づいたら、あまり相手の目は見ない。
外国人: 人がいる事に気づいたら、相手の目を見る。そして相手も
     自分の目を見たら、「にこっ」と軽い挨拶をする。

簡単な違いであるが、相手に与える印象にはずいぶんと差がある。
残念な事に、前者は「社交性の無い」とらえられてしまい、
後者は「社交性の有る」ととらえられる。この"Eye Contact"が
普通のカルチャーにおいては、後者の方が普通とされる。

幸運な事に、この"Eye Contact"に関しては、そういったカルチャー
的な違いがあることさえ認識すれば、簡単に対応できるのである。

次に学内、社内、アパート内でだれか他人とすれ違ったとき、
まず意識的に相手の目を見てみよう。するとSocial Skillsのある
相手であれば大抵の場合は自分の方を見るはずである。そして上で
述べた様に、相手が自分を見たタイミングで軽く「にこっ」と笑顔を
する。これだけで良いのである。すごく小さな差であるが、意識する
のとしないのでは、相手の感じる社交性の印象に大きな差がある。
なのでこれはぜひ実践すべきであると思う。

最後に、これを実践しだすと面白い体感がおまけでついてくる。
このすれ違い様に相手の目をきちんと見、笑顔をすることに慣れてくる
頃には、逆に自分の"Eye Contact"に対して目を意識的にそらす人とも
出くわす事になる。

Eye Contactに慣れた頃には、自分にとって「あれ、この人自分の
こと良く思ってないのかな?」、「シャイな人だな〜」、
「ちょっと感じ悪いな...」「ちょっと変わった人だな」といった
印象を受けるはずである。それはすなわち、外国人から見た我々日本人
の印象なのである(苦笑)。

次はもう少し社交性のスキルを上げたいひとに、ジャグジーの社交性
の話を紹介する。

「ジャグジーにおける社交性」にすすむ

Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 1

自分がアメリカに来てまだ間もない頃、意識的になおした
Social Skill(社交性)について書いてみたい。
それはすなわち"Eye Contact"(目と目を合わせる事)である。

こんな状況を想像してほしい。

会社、学校、もしくは自分の住んでいるアパートにおいて、
面識の無い人すれ違うとする。会社の場合は社内のどこかで、
学校においては学内のどこかで、住んでいるアパートにおいては
アパート内のどこかで、知らない人とすれ違うとする。これは
その人と隣の席である場合や、「お隣さん」の場合ではなく、
まったく面識の無い人であるとする。

ここで、日本の場合、このすれ違ったひとは他人のため、
とくに相手と目を合わせるということはあまりしない。
むしろ目を合わせると、相手は「何こっち見ているんだ?」
という反応をするかもしれない。これはカルチャー的な物で、
日本においてはこれが普通である。意図的に他人と目をあわせ
ようとはしないのである。

さて、これが国際環境においてはどうであろうか?

誰かがいることに気づいている時に、あえて目線を
合わせないという行動は、自分の経験から、「シャイである」
「社交性が無い」「変わった人」、最悪の場合「失礼な人」
ととられてしまう。失礼なひとととられる事は滅多にないが、
「シャイである」「社交性が無い」「変わった人」と全てよい
印象ではない。

ではなぜそうとらえられてしまうのか?これは外国の感覚から
すると、同じ学校に通っている、同じ会社で働いている、
同じアパート内で住んでいる、という時点で、既に全くの他人では
ないのである。

我々日本人の感覚としては、たとえば社内、学内で数回面識のある
人に相当するかもしれない。もしくは、アパートの「お隣さん」
などである。そういう人と仮にどこかですれ違った際に、意識的に
目をそらす人がいるとすると、これはやはり「シャイである」
「社交性が無い」「変わった人」といった印象になると思う。

アメリカ人にとって、「他人」という定義は我々日本人の感覚
より狭いような気がする。よく道ばたで平気で知らない人に
話しかけてくる外国人を考えるとそれは納得して頂けると思う。

自分が10年ほど前初めて会社で働き始めた頃、なんでこの会社の
人たちは他人なのに自分に挨拶をするのだろうと感じた覚えがある。
そして、当時の自分は当然それに違和感を覚え、目をそらしていた
はずである。

「シャイである」「社交性が無い」「変な人」、という印象が
うれしい人はあまりいないと思う。そして、われわれのカルチャーに
とって普通な行動が、この環境においてはこんな印象であることは
気に留めた方が良いと思う。

Part.2はこのカルチャーの違いをもう少し具体的に、そして自分の
とった解決方法を紹介する。


「Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 2」に進む

2009年1月13日火曜日

友達との会話が楽しめない?

外国で生活する以上は、外国人と過ごす時間がどんな人でもある
はずである。せっかく時間を過ごす以上は、それが楽しい方がよいと
思うのは自分だけではないはずである。自分の場合は特に、国際環境
に置ける生活能力を上げるために外国人と過ごす時間を意識的に
多くしている。

しかし、やはり日本人と日本語を話していた方がしっくりくるのは、
今でも変わりない。話題やメンバーによって程度は違えど、まだまだ
外人と会話をしていると「なんか楽しくない」と思う事が多々ある。

これに気づくまでにずいぶんと時間がかかったが、(というかそれを
認めたくなかった?)そういった状況の時は、自分の場合「会話の為の
会話」をしていることが原因に有る。そして、通常その場の会話にうまく
参加できず、エンジョイできていないときの社交辞令として、もしくは、
くやしさからやっている事が多い。

前者の社交辞令は誰でも経験した事があるであろう。これは何語を
話していようと、自分の興味の無い話題に参加しなくてはいけない
事はいくらでもある。問題なのは、後者の方で、さらにはこれが
自分の気心しれた仲間たち、そして自分が興味のある話題の
ときに、会話に参加できず、その場の友達の存在を楽しめていない
ときである。外国語を話す上で、こういった状況に共感できる人は
多く居るのではないだろうか。

ここで一つ言える事は、仮に「コミュニケーション英語」がある
程度できている場合でも、この現象は起こるという事である。
厄介な事に、単純に「英会話ができないからでは?」ではかたずけら
れないのである。「英会話ができる様になれば自然と楽しめる様に
なるのでは?」も残念ながら適用されない。つまり、「カルチャー英語
力」が足りない事が原因であると思う。

(ここで仮に「え、コミュニケーション英語がまだ不自由な自分は
この先どんなに長いんだ?」と思ってしまった場合、これは別項目で
書くが、コミュニケーション英語とカルチャー英語は同時進行で学べる
と言う事を書いておきたい。このカルチャー英語に関して自分が最終的
に言いたいのは、コミュニケーション英語だけではなく、カルチャー
英語を平行して覚える努力をした方がよいということである。自分は
これに気づくのが遅かったため、いまいろいろ苦労しているのである。)

そしてもう一つ、日本語を話しているときはこれが起こらないと
いう事である。自分の気心の知れた友人達と、日本語で自分の興味の
ある話題を話しているときに、その場が楽しめないという事はあまり
無いはずである。

それではなぜコミュニケーション英語ができる場合でもこれが
起こるか、そして、その状況に陥りやすい場合、具体的に何が
足りないのか、そしてどうすれば自分の友達との会話がより
楽しめるようになるのか?

そこを次は考えたい。

2009年1月7日水曜日

[読み物タイトル] 日記

読み物に当てはまらない、日記的な物はここです。

How's it going? How are you? What's upにいちいちまじめに答えない。

アメリカに来て間もない頃、よくみんながつまずくのが

* How are you? (元気?)
* How's it going? (どう?)
* What's up? (どうした?どうしてる?)

といった挨拶表現に対する対応である。

知り合いとすれ違うたびにこれを言われ、1日に何度も
出くわし、なんて言って返せば良いのかが分からない時期が
自分にはずいぶんあった。

日本人の感覚では、だれか知人に質問を投げかけられれば
当然きちんと返答するのが礼儀である。なので、上のような
表現をされるたびに返答を考えなくてはいけなくなる。

「ああ、元気だよ。」、「いやー、調子悪いや」、
「ん〜、さっき元気って言ったから、今回はなんて言おう」
「どうした?なんてい言われても言う事無いよ。。。」
「俺、この質問されるたびに"OK", "Fine"しか言ってないな。。。」

この質問は、毎日何度も何度も繰り返されるので、
これが続くと、言葉に慣れないうちはこの質問に対する
返答だけで英語の勉強が嫌になる人もいる。

「特に用のない時は話しかけないでくれ!」と思ったことが
ある人は多いはずである。

ここでちょっとした秘密をお教えする。上のような質問を
投げかけられたとき、ベストな答えは「無視」である。
とは、少々言い過ぎだが、基本的には「何でも良い」
のである。どういうことか?

日本人が陥りやすいここでの間違いは、この質問を投げ
かけている外国人側の質問の意図である。こういった質問を
投げかける彼らは、実はその場で自分の様子や、状況を
本当に聞き出したいからその質問を発しているわけでは
無いのである。

「答えを求めていないんなら最初から聞くな!!!」

と言いたくなる。その通りである。彼らは
答えをそもそも求めてないのである。

別の言い方をすると、

* How are you? (元気?)
* How's it going? (どう?)
* What's up? (どうした?どうしてる?)

は全て、

"Hi!"(よう!)

と置き換えて解釈して良いのである。

つまりこれらの質問は、「よう!」という軽い挨拶
とほぼ同義の意味で用いられ、文脈に合わせて
まじめに答えなくて良いのである。

返答の仕方としては、

自分も同じ事を繰り返しても良いし、単に
"Hi"や"Hey!"でも良い。「よう!」に対して「よう!」
と返せばそれで終了である。

(正確には、ちょっと知人とすれ違ったときに
使われた場合。一対一でじっくり会話をしているときに、
もしくはすれ違い様でも足を止めての会話になる時に
この質問をする場合は、ちゃんと答えを求めている
ので無視しない様に(^_^)。)、

つまり、

知人: What's up? (よう!)
自分: What's up? (よう!)

知人: What's up? (よう!)
自分: How are ya? (よう!)
 
知人: How are you? (よう!)
自分: Hey! (よう!)

知人: How's it going? (よう!)
自分: Hi! (よう!)

でバッチシなのである。明日から自分もバシバシ

* How are you? (よう!)
* How's it going? (よう!)
* What's up? (よう!)

を外国人に投げかけてやろう(笑)


さらにもっと突っ込んだ、もう少し応用的な対応に興味
のある方は、「すれ違いざまの挨拶、発展編」へ

2009年1月6日火曜日

カルチャー英語とは?

この読み物のタイトルに戻る

海外での生活には英語が欠かせないが、一言に英語と
いっても色々な要素があると思う。

この読み物では、意外と一般的には意識されていな
い(と思う。。)、ある英語の要素について書いてみたい。

まず、学校や仕事場などで勉強をすることで学べる、語学
としての英語を、対比のために「コミュニケーション英語」
とする。

逆に、このコミュニケーション英語とは別に、カルチャーの
経験からしか学べない部分の英語があると思う。これを
「カルチャー英語」ととりあえず呼ぶ事にする。

この読み物で考えたいのはこの、カルチャー英語の
部分である。

日常生活では、このコミュニケーション英語が使えれば、
意思伝達のための会話は十分成り立つ。

しかし、国際環境でより踏み入ったことをしようと思うと
まずこの「カルチャー英語」の存在に気づく事になり、
それがいかに大切で、ときにはコミュニケーション英語より
も大事な場面すらあることを体験する。

まずはじめに、コミュニケーション英語とカルチャー英語が
どのような場面で必要か、自分なりにリストアップしてみる。

* コミュニケーション英語:

学校で授業を受ける、就職活動をする、会社で仕事をする、
買い物をする、銀行にいく、食事をする、友達を作る、
友達と会話をする、ルームメイトをつくる、等。


* カルチャー英語:

友達との会話を本当に楽しむ、映画・テレビを本当に楽しむ、
ルームメイトの存在をエンジョイする、異性との会話を楽しむ、
政治をする、リーダーとして人をまとめる、プレゼンをする、
会議をする、欲しい物を手に入れる(笑)、等。

あくまで個人的なリストであるが、カルチャー英語が必要な項目が、
より海外での生活を充実させる為に大切なものが含まれている事は
分かってもらえると思う。

逆に、コミュニケーション英語ができれば、生活上は不便はしない事も
分かると思う。

この読み物は、

「英語はだいぶ慣れて来たのに、どうしても外国人とつるむと
 どうも楽しくない」、

「日常会話はだいぶできるようになったのに、外国人とグループで
 フリートークになると会話に参加できない。。。」、

「仕事はできるのだが、社内政治となるとさっぱりだ」、もしくは

「外国人の異性の友達、恋人をつくりたい」

といったことを考えたことのある人に読んでいただくと、
面白いと思う。

次はさらにもっと具体的な定義を考える。

「カルチャー英語は、通常の生活からは学べない?」へ

補足:海外のカルチャーを吸収する上で、注意しなくてはいけない事

「海外での生活の上で日々心がけている事 Part. 1-a」へ戻る
「海外での生活の上で日々心がけている事 Part. 1-b」へ戻る

さて、この辺の話はたまに間違ったニュアンスで伝わってし
まうことがあるのだが、外国人と極力時間を過ごす事は、
アメリカの文化に染まる事、またはかぶれる事が良しと
しているのではない。

また、日本人、日本文化を敬遠した方が良いという事でも
ない。

海外で勝負する為には、英語と、その生活環境の
カルチャーは絶対に無視できない事である。いかに
異文化のカルチャーを体験していないと、生活、
仕事に不利な事が生じるかも日々体感している。
そんな経験から、早いうちからそういった部分に対応
できる事は海外で成果を出す為にプラスになると自分は
思う。

しかし、あくまでも自分のアイデンティティー、
カルチャーは日本であり、だからこそこういった
苦労がある。

一つ注意しなくてはいけないのが、外国人と過ごす
時間が長くなり、外国のカルチャーに身を置くと、
生活に必要な貴重なカルチャーを勉強できる代償
として、いろいろと悪い外国の習慣にもさらされる
事になることを知っておいた方が良い。

例えばドラッグがその例である。外国において
ドラッグは日本人が思っているよりかなり日常に
存在する。

これはとくに自分の様に外国のカルチャーに多く
の時間身を置いているとなおさらである。

そんな中、外国人が日本人よりドラッグを軽く
見ているからといって、それはやはり日本人
としてのアイデンティティーをもって判断した
方がよい。

カルチャーを学ぶ、カルチャーにつかる、イコール、
外国人の感覚をそのまま鵜呑みにするという事では
ないことを一言書いておきたい。

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2009年1月5日月曜日

日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 1

日本人と外国人とでは、おおきく仕事に対する姿勢に違いがある。
どちらが良い悪いと議論するのが目的ではないが、外国で仕事を
する以上はその違いをまず知ってく必要がある。

代表的な物を挙げると、


日本人:

* プロジェクトは言われた物に進む
* タスクは与えられた物を行なう
* 昇給は与えられた物を受ける
* 昇進は与えられた物を承諾する
* 仕事を共にする相手の、個人的な好き嫌いを会社には持ち込まない
* 上司の命令は基本的に聞く。疑問が有る場合は上司に言わず、
  同僚と話す。
* 自分の生活、家族も大事であるが、仕事も大事。仕事の方が優先さ
  れる場合もある。
* 仕事に対する責任感が強い。自分にまかされている仕事は、
  与えられた時間内でこなせないようなものは、サービス残業して
  でもこなす。
* 残業はそんなにたいそうな事ではない
* 残業をしなくては行けない場合は、サービス残業もする
* 上司が仕事をしている場合は自分も帰らない
* 部下が仕事をしている場合は自分も帰らない


外国人:

* 行きたいプロジェクトを自分で要望する
* 行ないたいタスクを自分で要望する
* 昇給交渉を自分からする
* 昇進を自分から願い出る
* 共に仕事をしたい人、したくない人を主張する
* 上司の命令を100%鵜呑みにしない、疑問があれば疑い、
  上司と話し合う。
* 自分の生活、家族を仕事より優先する
* 自分の休暇の必要性を主張する
* 仕事に対する責任感はあるが、自分にまかされている仕事が、
  与えられた時間内でこなせないようなものである場合は、
  そのことを上司に伝え、タスクを少なくしてもらうか、
  もっと人数を投入してもらう。
* 残業を嫌い、時間通りに仕事を出る
* 残業をしなくては行けない場合は、その見返りを求める
* 上司が仕事をしていようが、自分の帰る時間には帰る
* 部下が仕事をしていようが、自分が帰る時間には帰る


自分で書いていて思ったのだが、不思議なくらい姿勢が正反対である。
初めに書いたが、どちらが良い悪いと議論するのが目的ではない。

お互いにカルチャー的な背景があり、両者には両者の美徳がある。

日本のカルチャーは、勤勉で、責任感が強く、まじめに仕事に取り
組む。上下関係を尊重し、それによって組織がうまく動く。

外国のカルチャーは、自己を尊重、主張し、自分の生活を第一と
する。自分の主張をする以上は、逆に言うとそれに見合った成果を
出さなくてはいけない状況に自分を置く事になる。そういった性格
の社員をうまくまとめ、動かす組織、リーダーが存在する。

このカルチャーに起因する仕事に対する姿勢の違いはあって
当然で、両者にはそのような傾向になった、歴史的なきちんとした
理由がある。

さて、問題は、この片一方がそのカルチャーを、もう一方の
カルチャーに持ち込んだときにどうなるかである。

日本人が、日本のカルチャー下で仕事をしているのであれば、
当然日本のルールに従うのが普通である。日本人の仕事に対する
美徳は尊重されるはずである。

逆に、外国人が、外国のカルチャー下で仕事をするのであれば、
それもそこのルールに従って良いはずである。

では、日本人が、この外国のカルチャー下で仕事をする場合、
もしくは、外国人が日本のカルチャー下で仕事をする場合、
どうであろうか?

これは、きちんと両者の違いを理解し、自分に合った新しい
カルチャー下での、対応方法を考えなくてはならないであろう。

次は、仕事に対するカルチャー的な姿勢の違いを、意識せず
異国のカルチャーに持ち込むと、どのようなことが起きるかを
具体例を通して考える。

「日本人と外国人との仕事に対する姿勢の違い Part. 2」へ

Social skills(社交性)の位置づけ

まず始めに、Social skillsの位置づけをしてみる。

生活環境の中に置けるSocial skillsについて感じる
事を羅列してみる。

* 欧米人はエレベーター内、移動中、ジャグジー内での
  沈黙に違和感を覚える。
* 欧米人は会話のあいだの「間」に違和感を感じる。
* アメリカ人は社交性の無い外国人の友達に、冗談まじりに罪悪感を
  与える(^_^)。(半分冗談だが、こういう風に感じている外国人は
  多いと思う。つい最近、スウェーデン人とこの話をした際に、
  「あるある」同意していた(笑)。)
* 「社交性がある」 = 「大人」
* 「社交性が無い」 = 「子供」
* 沈黙の多い友人関係は楽しくない

もちろん全て個人的意見であり、ひとによって感じ方は全く違う
はずである。また、社交性が無い事をマイナスとしてとらえない欧米人、
アメリカ人も沢山いる。

しかし、カルチャー的に上記のような傾向があり、生活している
と感じる事は間違いない。

逆に我々の慣れている日本のカルチャーは、

* 比較的会話の必要の無い所では会話はしない
* 慣れている人でないと社交的にはならない
* 一概に、「社交性がある」 = 「プラス」、
 「社交性が無い」 = 「マイナス」ではない。
* 沈黙や、「間」というのに慣れており、それが生活の中に
  いつも存在し、普通である。

アメリカにいる日本人がよく「シャイである」や、「社交性が無い」
と言われる事があるのだが、こういったカルチャー的な違いがある
からであると自分は思う。

次はこういった違いが、どのように社交性として現れ、
どう生活、仕事と関係してくるかを考えてみる。

「Eye Contact、社交性の基礎編 Part. 1」に進む

2009年1月4日日曜日

自分の知人をパーティで見つけたら...

「ドアの話」に戻る...

今まで目にして来たGentlemanな行為の中で、自分が感心した
ものをもう一つ紹介する。

こんな状況を想像してほしい。自分が、会社仲間の集まる
何らかのパーティに参加しているとする。その場には自分と、自分の
Significant Other(旦那、奥さん、彼氏、彼女の総称)と一緒に
参加しているとする。

そんななか、パーティーに遅れて一人の男性が到着する。彼は
会社の仲間のため、自分は知り合いであるが、Significant Other
はこの男性との面識が無いとする。自分はパーティ会場の入り口と、
カクテルの用意されているキッチンとの間に立っており、たった今
入って来た知り合いは、とりあえず飲み物をとりにキッチンに向う。

向う途中に自分と知人がすれ違うのだが、到着したばかりでキッチン
に向っているので、そこで立ち止まりじっくりと話し込む状況では
ない。

まず自分とその知人はかるい挨拶をする。そしてその知人が
自分のSignificant Otherの存在に気づく。そこでその知人の
とる次の行動がすごくその人のGentlemanの心得を表すと思う。

パターンとしては4つほどある。(ちなみにこれはタイミング的に、
自分がその知人にSignificant Otherをまだ紹介していないと仮定する。)

1. Significant Otherの存在に気づくが、見てみぬふり、もしくは
「ちらっ」とだけSignificant Otherをみる。いわゆる「チラ見」である。

2. "Hi"(こんにちは)と一言挨拶する。ただこれはどちらかというと、
失礼に当たらないように最低限の挨拶である。きちんと笑顔で言わ
なかったり、言い方によっては、ついでの挨拶に見えてしまうかも
しれない。

3. "Hi, I'm ~, I work with ~"(こんにちは、〜です。〜と仕事をして
います)といった風に自己紹介をし、笑顔を忘れず自分から手を差し
伸べ握手をする。ついでな感じではなく、きちんとSignificant Otherに
自己紹介をする。

4. (3)に加え、"Are you enjoying the party?"(「パーティを楽し
んでいる?」)と一言小話をする。

この状況で、自身の知り合いと話をする際に、(4)ができている人は
意外に少ないのである。

ちなみにこういった状況はよくあるわけで、パーティであろうが、
ランチであろうが、仮に自分が男性であるとすれば、一緒に
旦那や彼氏の仕事仲間の集まりに行っている女性側からすれば、
自分の知り合いの集まりではないため、奥さんや彼女はその
場では部外者であり、第三者の気分になるだろう。

この設定においては、知人のSignicicant Otherと話を
しないことは無礼にはあたらないが、そのような状況での
女性の置かれた立場を配慮し、一言でも小話をしてくれると、
本人としては気持ちがよいであろう。そして、その配慮ができ
るのはすごく大人の行為であると思う。

これを初めて目にしたとき自分に当てはめてみた結果、(1)では
無かったが恥ずかしながら(2)であった。。。こういった状況で
自分はやはり知人のSignificant Otherにまできちんと会話を
派生させていなかった。

さらにもうちょっと極端な例を挙げてみる。

昨年の科学技術賞の授賞式に出席していたとき、自分は会場
前方の受賞者テーブル、会社の他の知り合いの人たちは
後方のテーブルに座っていた。

途中で会社の知り合いが何人か自分達の座っているテーブルに
「おめでとう」を言いに来てくれる。自分達は席に座っており、
相手からしたら短い立ち話である。

そんな中、自分と一言話をする際に、横にいるSignificant Other
にきちんと自己紹介をし、小話までしてくれた人が一人だけいた。
その場には会社のリーダも数多くいた中、一人だけであった。
話を簡潔にするため彼を「A」とする。

授賞式という極端な設定では、受賞者に会話が向かうのはごく
自然な事であると思う。そんな中、きちんと隣にいるSignificant
Otherが第三者にならないようにと、この状況でも会話の配慮を
しているのは凄いと思った。当然その「A」と彼女はその場が初対面で
面識は無い。

ドアの話と同じだが、自分が「おっ」とおもうGentlemanの
行動は、多くの場合、会社のリーダー達にみうけられる事が多い。

「A」は、2006年にデジタルドメインを買収した現オーナー
の一人である。


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2009年1月2日金曜日

ドアの話

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アメリカに来て間もない頃こんな事に気づいたことがある。

ある日、仕事仲間6人ほどとランチを終え、会社に歩きながら
戻って来た時である。ジョシュ(男性)が一歩先へ進み、
みんなの為に横へよけ、会社の入り口のドアを引いて開ける。

みんながドアを通り、笑顔でジョシュを見る人、「ようっ」
といった仕草をする人、ありがとうと言う人。

ジョシュは最後にみんなが自分の開けたドアを通ったら最後に
会社に入って来た。毎日見ている自然な光景であったがその日は
ちょっとその光景になぜか関心を持った。

その時の構成は自分を含め6人は全て男性、年齢は20代から
40代まで、国籍はごちゃ混ぜである。ジョシュはアメリカ人で
その中で一番年配、自分はその中で一番若かった。

なぜこの光景にその日だけ関心を持ったかは分からないが、その
とき思ったのが、「そういえばこっちの人は男女、年齢かまわず
ドアをきちんと人の為に開けるなあ」であった。

そのときの自分のドアに関しての認識は、気になる女の子に
かっこつけるためにGentlemanぶってやるぐらいだった(恥)。
だからなおさら気づいてからはジョシュの行動が気になっていた。

それからずいぶんの間、人とドアをくぐるたびに、どういった人が
ドアを人の為に開けているかを観察してみた。

結果、ドアを開ける傾向が強いのは、年配で人生経験が豊富なひと、
会社で地位の上の方の人、であり、この条件に当てはまっていると
男女ともに差はなかった。そのころの友人の中で、30以上、
リーダー的地位の人は例外無く皆、こういった状況ではドア
をみんなの為に開けていた。

逆にドアを開ける傾向が少なく見えたのは、若い、もしくは
人生経験が少ない人、会社での経験が少ない人であった。
当時の自分は見事このカテゴリーに的中で、ドアは気になる
女の子に開けるものと勝手に思っていた。。。

この違いに気づいてからは、その意味が分かっていたわけでは
ないが、なんか誰に対してでも自然とドアの開けられるグループの
人たちが自分には立派に見えた。

変な言い方かもしれないが「ドアを誰にでも自然と開けられる
人になりたい」と思った。

そこで、まず次の日にやってみる。ランチの帰り道に、
いつもならジョシュが一歩先に出るところを、意図的に数歩先を
あるき、自分が横によけてドアを開けてみる。いつもはジョシュに
ドアを自然と開けてもらっていた立場の為、立場が変わると
すごく不自然な感じがした。むしろ居心地が悪かったのを
覚えている。

唐突だが「Gentleman」とはどういう意味であるだろうか? 
あえてGoogleを使わないで考えてみる。

自分が日本で生活していた頃、何となくイメージしていたのは
外国のテレビや映画で見る「女性に優しい」、「女性に対してドアを
開けてあげる」、といった程度の認識だった。

今現在の自分の中の定義は、

「Gentleman」=「大人」 である。

「女性に対して」や「〜をする」は全く関係ない。

自分の尊敬するリーダー達は、皆みんなの為にドア
をきちんとあけられる。あたかもそれが大人としての
マナーであるかの様に。自分にはそれが今では大人
としての余裕に見えるのである。

一緒に仕事をしていて、自分の事しか気にしなかったり、
自分勝手な人より、周りの人に気が配れて、チームや
周りの人に大人の余裕が見せれるひとのほうがリーダー
のイメージとして頼りがいがあるのは言うまでもない
だろう。

大人であるから周りの人には気を配り、優しくする。
女性、お年寄り、子供に対しては、これはむしろ言うま
でもないといった感じである。

逆に考えてみよう。会社で自分が頼りにしなくては
いけない存在の人が、何であれ大人のわきまえている
べくマナーができていないとしたら。少々上司として
頼りない気がする。

つまり、ここのカルチャーでは、リーダーが、ボスと
して、大人だから皆の為に気を使う。これが大人
としてのしるしである。

だからこそ、自分も「ドアの開けられる人」になりたい。

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